按察

按察
prev

3

 遣水(やりみず)に一枚、また一枚と、楓の葉が落ちた。綾織物が風にはためいているかのようであった。
 僧都は先ほどと少しも変わらず、膝を正して座っていた。
「宣耀殿女御様は、本当に賢い方でしたなあ。小さな頃から、もの覚えがよかったです。弟もこの人を大切にしておりました。優れた女房を大勢集めて、熱心に習い事をさせていましたなあ」
 僧都の話を聞いているうちに、右大将の目頭が熱くなってきた。宣耀殿女御が振り向き、笑いかけ、話しかける姿が、まざまざとよみがえってきたのだ。右大将が十四歳のころ、姉は十六で帝に入内した。我が姉ながら、とても美しく、まぶしく思われたものだ。
 幼いころから、和歌を覚えるのが早く、筆跡が見事であった。右大将は、姉に負けじと、がむしゃらに和歌を覚え、漢文を暗唱し、字を書く練習をした。女だからと、漢文は習わなかったが、父が右大将に漢文を教えると、宣耀殿女御の方が、先に覚えてしまった。
 ところが、姉が入内すると、帝から箏(そう)を習うようになり、御前に頻繁に参上するようになった右大将は、それを聞いているうちに、自然と覚えてしまい、姉よりそなたの方が上手であると帝からよく誉められた。
 もっとも二人とも小さいころから七弦琴を競うようにして練習し、どちらも達人と呼ばれたから、当然のことと言えば当然ではあったのだが、そういうふうに、姉弟は何事につけ、競い合いながらも、とても仲がよかったのである。
 僧都が右大将に宣耀殿女御の思い出を語ると、右大将もそれに自分の思い出を継ぎ足した。そのやりとりは、どちらもやめようと言わないので、いつ果てるともしれなかった。僧都は自分に話すべきことがあると言っていたが、そのことを忘れてしまったのだろうかと、右大将は何度か思ったが、姉について、いろいろと話したい気持ちも強く、そのことを積極的に僧都に言おうともしなかった。僧都は僧都で、今している右大将の姉についての話が、自分が右大将に伝えておきたいことへの前置きになるので、ここのところを十分に話し尽くしたいと思っているのであった。
 やりとりをしているうちに、右大将の心はすっかり元服したてのころに戻り、僧都の心はすっかり壮年のころに戻った。元服したての右大将には、帝も父も伯父も同じように立派な大人に見えた。しかし、僧都――伯父が一番年上で、父がその次で、帝が一番若かったのだ。父は今の右大将と同じぐらいの年齢であった。帝は、今の右大将よりずっと若かったのだ。伯父は、今の右大将より一回りぐらい年上だった。右大将は、目の前の老人が不思議に思えた。あのころと今と、あまり変わっていないような気がするからだ。頭を剃り、僧衣を着ているからという気もするし、伯父が非常にたくましい体をしているからという気もする。実際僧都は働き者だった。弟子にさせればよいようなことも、全部自分でしなければすまない人だった。それだけではなかった。彼は、自分の子どもたちが住む地方に、一人でも平気で馬に乗って出かけて行った。他にも目的はあるようであったが、とにかく伯父はいろいろなところを飛びまわって、一年中忙しそうに暮らしていた。右大将が把握していないことも非常に多かった。いや、右大将だけではない。親類の誰もが、僧都がどういう人間なのか、よくわからないというようなことを、しばしば口にしていた。しかし、彼は仏道修行には非常に熱心であったから、右大将は、伯父が仏道に関して多忙を極める人だとしか思っていなかったが、今日はそういう見方も変わっていくような気がした。
 僧都は話し方が巧みであった。右大将が姉の思い出に浸っていると、急にそのことが来た。
 誰も知らないことですが、実はこういうことがあったのです。私は、弟、つまり、あなたのお父上からたしかに聞きました。しかし、あなたはお姉さまのことがお好きでしたから、こんなことを聞くのはおいやでしょうな? やはりやめておきましょう。
 右大将は、どんなことを聞いても私はかまいませんと、断固としたようすで言った。
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日