按察

5
葉が一枚、また一枚と落ちる。楓、橡(とちのき)の葉が、日に当たって夕焼けのようである。柿の実もつやつや光っている。
「橡(とち)の実がたくさん落ちているわね」
「とち餅作って」
「そんなにすぐに食べられるはずないでしょう」
少納言の乳母が娘に言い聞かせているようだ。宣耀殿女御は思わず微笑んだ。
「なんで?」
「あく抜きしたりするのに、すごく日数がかかるのよ」
「食べたい、食べたい」
「だだこねるんじゃないの。柿むいてあげるから、がまんをし」
「うん」
宣耀殿女御もとち餅が食べたいと思った。
「申し訳ございません。少納言の乳母の子が騒いでいるんです。ちょっとお待ちください」
右近は御前から去り、外で少納言の乳母と言い合っている。宣耀殿女御は安芸(あき)を呼んだ。
「斎宮女御様からいただいたとち餅を持ってきてちょうだい」
安芸は折敷(おしき)に美しく盛ったとち餅を持ってきた。紅葉があしらってある。
「一ついただくわ。あとはあなたたちで召し上がってちょうだい」
安芸はまだ幼げな顔に笑みを浮かべ、うれしそうに礼を言った。宣耀殿女御は、外にいる乳母の子にもあげるように言った。安芸は振り返って、うなずき、御前から下がった。
すぐに乳母の子の歓声が上がった。女房たちもはしゃいで、とち餅をほおばっているらしい。
斎宮女御は宣耀殿女御を何かにつけて気遣い、菓子などを届けてくれていた。宣耀殿女御を意識して、何かと困らせることを言ってくる皇后とは、大違いである。斎宮女御は、従姉であるという理由だけで親切にするわけではなかった。なぜなら皇后も宣耀殿女御の従姉であるからだ。皇后の父左大臣は、宣耀殿女御の伯父である。この左大臣の姉が斎宮女御の母である。同じ従姉であっても、斎宮女御は親王の娘だから、優美であって、皇后はただ人(びと)の娘だから、心劣りするのであろうか。いや、そうではないだろう。皇后の父は摂関家を継承すると周囲に認められ、その地盤は堅固である。親王は先々帝の第四皇子であったが、母は源氏であり、当時の関白(宣耀殿女御たちの曾祖父)の娘に生まれた第十四皇子(先帝)が即位することになったのを、いかんともすることができなかった。今は藤原氏の時代である。藤原氏の関白の娘が産んだ皇子となれば、それが長男でなくても、次男でなくても、三男でなくても、まったく問題はない。現に先帝は、第十四皇子でありながら、しかも、わずか七歳でありながら、帝位に就くことができたのである。それを当時二十四歳の親王(斎宮女御の父)がどのような思いで見ていたかは、容易に想像できる。親王は先々帝の期待も大きく、学識豊かで、諸芸にも秀で、関白の信任も厚く、誰もが帝位に就くことを望んでいた。親王自らもごく親しい者たちには、そのような思いを述懐していたそうである。しかし、藤原氏の関白の孫が帝位に就くという慣例は、いかに卓越した能力を持つ親王といえども、打ち破ることはできなかった。いや、親王はあえて打ち破ろうとは考えず、摂関家と円満な関係を築き、一家と子孫の繁栄を優先したとも言われている。斎宮女御はその親王の娘であるから、当然、父の訓戒を受けているであろうし、また、日ごろそういったことを常に意識して後宮で女性たちと交流しているであろう。だから、斎宮女御は、どのような人たちへも細やかな気配りをしており、したがって、後宮の女性たちも、斎宮女御に対しては、気を許して接しているのである。もちろん、そこには、斎宮女御が本格的な競争相手になることはあるまいという計算もあるであろう。
後宮で難しいのは、皇族の女御よりは、むしろ藤原氏の女御であった。
「ふう」
宣耀殿女御はまた溜息をついた。ここにいると、知らず知らずにこういうことばかり考えてしまうのだ。とち餅を口に含むと、わずかに心を慰められた。
「橡(とち)の実がたくさん落ちているわね」
「とち餅作って」
「そんなにすぐに食べられるはずないでしょう」
少納言の乳母が娘に言い聞かせているようだ。宣耀殿女御は思わず微笑んだ。
「なんで?」
「あく抜きしたりするのに、すごく日数がかかるのよ」
「食べたい、食べたい」
「だだこねるんじゃないの。柿むいてあげるから、がまんをし」
「うん」
宣耀殿女御もとち餅が食べたいと思った。
「申し訳ございません。少納言の乳母の子が騒いでいるんです。ちょっとお待ちください」
右近は御前から去り、外で少納言の乳母と言い合っている。宣耀殿女御は安芸(あき)を呼んだ。
「斎宮女御様からいただいたとち餅を持ってきてちょうだい」
安芸は折敷(おしき)に美しく盛ったとち餅を持ってきた。紅葉があしらってある。
「一ついただくわ。あとはあなたたちで召し上がってちょうだい」
安芸はまだ幼げな顔に笑みを浮かべ、うれしそうに礼を言った。宣耀殿女御は、外にいる乳母の子にもあげるように言った。安芸は振り返って、うなずき、御前から下がった。
すぐに乳母の子の歓声が上がった。女房たちもはしゃいで、とち餅をほおばっているらしい。
斎宮女御は宣耀殿女御を何かにつけて気遣い、菓子などを届けてくれていた。宣耀殿女御を意識して、何かと困らせることを言ってくる皇后とは、大違いである。斎宮女御は、従姉であるという理由だけで親切にするわけではなかった。なぜなら皇后も宣耀殿女御の従姉であるからだ。皇后の父左大臣は、宣耀殿女御の伯父である。この左大臣の姉が斎宮女御の母である。同じ従姉であっても、斎宮女御は親王の娘だから、優美であって、皇后はただ人(びと)の娘だから、心劣りするのであろうか。いや、そうではないだろう。皇后の父は摂関家を継承すると周囲に認められ、その地盤は堅固である。親王は先々帝の第四皇子であったが、母は源氏であり、当時の関白(宣耀殿女御たちの曾祖父)の娘に生まれた第十四皇子(先帝)が即位することになったのを、いかんともすることができなかった。今は藤原氏の時代である。藤原氏の関白の娘が産んだ皇子となれば、それが長男でなくても、次男でなくても、三男でなくても、まったく問題はない。現に先帝は、第十四皇子でありながら、しかも、わずか七歳でありながら、帝位に就くことができたのである。それを当時二十四歳の親王(斎宮女御の父)がどのような思いで見ていたかは、容易に想像できる。親王は先々帝の期待も大きく、学識豊かで、諸芸にも秀で、関白の信任も厚く、誰もが帝位に就くことを望んでいた。親王自らもごく親しい者たちには、そのような思いを述懐していたそうである。しかし、藤原氏の関白の孫が帝位に就くという慣例は、いかに卓越した能力を持つ親王といえども、打ち破ることはできなかった。いや、親王はあえて打ち破ろうとは考えず、摂関家と円満な関係を築き、一家と子孫の繁栄を優先したとも言われている。斎宮女御はその親王の娘であるから、当然、父の訓戒を受けているであろうし、また、日ごろそういったことを常に意識して後宮で女性たちと交流しているであろう。だから、斎宮女御は、どのような人たちへも細やかな気配りをしており、したがって、後宮の女性たちも、斎宮女御に対しては、気を許して接しているのである。もちろん、そこには、斎宮女御が本格的な競争相手になることはあるまいという計算もあるであろう。
後宮で難しいのは、皇族の女御よりは、むしろ藤原氏の女御であった。
「ふう」
宣耀殿女御はまた溜息をついた。ここにいると、知らず知らずにこういうことばかり考えてしまうのだ。とち餅を口に含むと、わずかに心を慰められた。