按察

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7

 渡殿の床板が冷たい。麗景殿女御の冷たい音色で震えるのか、寒さで震えるのか、宣耀殿女御には、わからないようになった。主上に会いたくないわけではなかったが、今夜はできれば、宣耀殿に戻って、暖かいものにくるまって、温かいものを口に入れたかった。何か悪寒までするような気がしないでもない。悪寒に麗景殿女御のきんきん琴の弦をはじく音が触った。承香殿の渡殿にやっとの思いでたどりついた。ぴたりと閉ざした蔀の隙間から、明るく、柔らかな光が射していた。何か用事があれば、少し立ち寄って斎宮女御と、一つ二つ会話を交わしたいと思った。しかし、主上のもとへ向かう足をわざわざ止めて、話しかけるようなことは思い当たらなかった。ほんとうにどうでもいいようなことなら、二つ三つないではなかったが、このようなときに話をすると、普段気づかない斎宮女御の自分に対する厳しい目などに気づいてしまったりしたら、それはそれで困るだろうとも思い、立ち寄るのはやめにした。承香殿の前は、静かで、蔀の隙間から洩れる光は暖かげだ。しかし、悪寒はますますひどくなった。
 弘徽殿が見えてくると、明るくなった。格子がまだ上がったままで、御簾の近くに女房たちが座っている。琵琶の音色が秋の風情をかき立てている。
「なんて素敵な琵琶でしょう」
 思わず宣耀殿女御はつぶやいた。すると、琵琶が止まった。女房たちがそそくさと部屋の奥に入り、格子も下がってしまった。少しでも関係がよくなるようなきっかけがあれば、できるだけこちらから働きかけようと思っている宣耀殿女御は、肩透かしを食らった格好になった。
「ほんとうですね。秋の素敵な雰囲気が感じられますわ」
 右近が宣耀殿女御の行き所のない言葉を、そつなくすくいとった。
「これほど秋の感じが醸し出せるなんて、素晴らしい手腕ですわね」
「まったくです」
 弘徽殿に控えている女房たちの何人かは、自分たちの仕組んだことが、あまり宣耀殿女御には効き目がなかったようだと、残念がっていたが、宣耀殿女御に好意を抱いている者たちは、ほっとしたような気持ちになった。特に琵琶を弾いていたしずくという女房は、音楽や和歌に堪能で、立ち居振る舞いの美しい宣耀殿女御に、憧れを抱いていたので、自分の演奏をほめられてうれしかった。琵琶という楽器はしずくに似ているということで、彼女はそう呼ばれていた。通常は父兄の官位で呼ばれることが多いので、しずくのような場合は珍しかった。しずくは弘徽殿にいると気持ちが重くなるといつも感じていた。しずくが弘徽殿に仕えたのは数年前だったが、そのころから弘徽殿にいると気が重くなった。
 弘徽殿女御は関白の娘である。つまり、藤壺に住む皇后の父より、弘徽殿女御の父の方が、位が上なのである。では、なぜ弘徽殿女御が皇后にならず、藤壺の方が皇后になったのか? 理由は単純である。弘徽殿女御には、皇子が生まれなかった。もしも弘徽殿女御が皇子を生んでいたら、関白の孫であるから、当然皇太子になっていたであろう。弘徽殿女御は皇后になっていたであろう。弘徽殿には子ができず、藤壺には子ができた。ただそれだけの違いが、この後の歴史を大きく変えていったのだった。

 膳の箸を休め、僧都は繰り返した。
「ただそれだけの違いが、この後の歴史を大きく変えていったのです」
 僧都の鋭い目から右大将の目は離れられなかった。
「弘徽殿女御に皇子が生まれていれば、世の中は、まったく違っていたでしょうな。もちろんそれが、私の弟(右大将の父)やあなたにとって、よいことだったか、悪いことだったかはわかりません。しかし、私の兄(左大臣)の子たちが、現在のように、わがまま放題に振る舞う世の中には、なっていなかった気がいたします」
 酒で喉を潤すと、僧都は、話を戻した。

 しずくは、弘徽殿女御の発作を思い、暗くなった。弘徽殿女御は、皇后だけでなく、宣耀殿女御のことも、激しく憎んでいた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日