按察

8
手に触れるものがすべて冷たく感じられた。弘徽殿女御はもっと部屋を暖めてほしいと思った。
「誰か、炭櫃(すびつ)を持ってきて」
讃岐が慌てて入ってきた。
「すでに二つ置いてありますが」
弘徽殿女御は目をつり上げた。
「寒いのよ! 全然効かないわ!」
「おかしいですね? 火を強くしてあるのですが」
讃岐は部屋の中がこんなに暑くなっているのに、不思議だった。
「とにかく、早くして!」
讃岐は少納言といっしょに炭櫃を運んできた。
「お食事もご用意いたしましたので、お召し上がりください」
「いらないわ」
「しかし、今日はほとんどお召し上がりになっていませんから」
「気分が悪くて、とても食べられないわ」
「少しでもお口に入れませんと」
「いらないって言ってるでしょ!」
弘徽殿女御はかん高い声でそう言うと、茵(しとね)に伏してしまった。しかし、眠りたくなかった。眠ると夢を見るのだ。いやな男が出てくるのだ。誰だかわからない。それが何かを言っている。何を言っているのかわからない。しかし、自分が子どもを産まないことに関係するような気がする。入内してからこの夢を見るようになった。初めのうちは気にならなかった。男がいやだとも思わなかった。男は申し訳ないような、悲しい表情をしていた。なぜそんな顔をしているのかと夢の中で自分が訊いていた。男は何か言うが、それがどうしても聞き取れない。自分にはいつまでも子どもができなかった。主上は残念そうであった。両親はつらそうであった。両親は何も言わなかった。親類は慰め、励ましてくれた。しかし、自分にはみんなの気持ちが痛いほどわかっていた。父に申し訳ないと思った。男の夢を見るたびに、男は自分に申し訳なさそうな顔をする。自分は次第にわかってきた。この夢の男がどこかで自分に子どもを産ませないように、呪っているのだ。そして、それに罪悪感を抱いているのだ。それで自分の夢の中に出て来るのだ。でも、自分にはわかっている。この男の正体が。この男は、叔父の左大臣であろう。叔父は自分に皇子を産まれては困る。自分が皇子を産めば、皇太子になるのは、確実だからだ。自分は産まなかった。叔父の娘の藤壺が皇子を産んだ。現在は皇太子になっている。自分は出遅れてしまった。父も出遅れてしまった。父は叔父に負けた。自分のせいだ。自分は何としても皇子を産まなければならない。しかし、主上は自分を呼びたがらない。藤壺ばかり呼んでいる。最近は、若い宣耀殿をお気に召している。藤壺もあまりお呼びがかからなくなったそうだ。宣耀殿ばかり呼んでいるのだ。今夜もそうだ。もう四日も続けて呼んでいると少納言が言っていた。これでは、ますます自分が呼ばれることはない。宣耀殿を呪い殺してやりたい。寒い。なんでこんなに寒いのか?
宣耀殿女御はやっとの思いで清涼殿にたどり着いた。清涼殿は暖かかった。宣耀殿女御は不思議だった。ここへ来たら、すっかり悪寒が消え失せていた。さっきまでなんであんなに気分が悪かったのか、不思議だった。きっと弘徽殿の琵琶の音色と右近の取りなしのお陰だろう。宣耀殿女御は、知らなかった。彼女が信頼し、尊敬している者が、もっとも彼女を恨み、憎んでいることを。宣耀殿女御をもっとも嫌っていたのは、承香殿に住む斎宮女御であった。一番しそうもない人がすることが、一番残酷であった。藤壺の皇后や弘徽殿女御は、露骨に宣耀殿女御を嫌っていたし、実際、密かに呪詛していた。しかし、そのような呪詛というものは、思ったほど効果がないものである。顔に出し、口に出すうちに、心にこもるものが少なくなってしまうのである。斎宮女御は、顔にも口にも出さないから、身近に仕える女房たちでさえ、そういうことを知らない。斎宮女御はもっとも口の堅い女房にしか、そのことを知らせていない。それも、ある考えのために、その女房にだけ知らせたのである。こういう人の呪詛というものは、恐い。
主上はうれしそうに宣耀殿を迎えた。
「誰か、炭櫃(すびつ)を持ってきて」
讃岐が慌てて入ってきた。
「すでに二つ置いてありますが」
弘徽殿女御は目をつり上げた。
「寒いのよ! 全然効かないわ!」
「おかしいですね? 火を強くしてあるのですが」
讃岐は部屋の中がこんなに暑くなっているのに、不思議だった。
「とにかく、早くして!」
讃岐は少納言といっしょに炭櫃を運んできた。
「お食事もご用意いたしましたので、お召し上がりください」
「いらないわ」
「しかし、今日はほとんどお召し上がりになっていませんから」
「気分が悪くて、とても食べられないわ」
「少しでもお口に入れませんと」
「いらないって言ってるでしょ!」
弘徽殿女御はかん高い声でそう言うと、茵(しとね)に伏してしまった。しかし、眠りたくなかった。眠ると夢を見るのだ。いやな男が出てくるのだ。誰だかわからない。それが何かを言っている。何を言っているのかわからない。しかし、自分が子どもを産まないことに関係するような気がする。入内してからこの夢を見るようになった。初めのうちは気にならなかった。男がいやだとも思わなかった。男は申し訳ないような、悲しい表情をしていた。なぜそんな顔をしているのかと夢の中で自分が訊いていた。男は何か言うが、それがどうしても聞き取れない。自分にはいつまでも子どもができなかった。主上は残念そうであった。両親はつらそうであった。両親は何も言わなかった。親類は慰め、励ましてくれた。しかし、自分にはみんなの気持ちが痛いほどわかっていた。父に申し訳ないと思った。男の夢を見るたびに、男は自分に申し訳なさそうな顔をする。自分は次第にわかってきた。この夢の男がどこかで自分に子どもを産ませないように、呪っているのだ。そして、それに罪悪感を抱いているのだ。それで自分の夢の中に出て来るのだ。でも、自分にはわかっている。この男の正体が。この男は、叔父の左大臣であろう。叔父は自分に皇子を産まれては困る。自分が皇子を産めば、皇太子になるのは、確実だからだ。自分は産まなかった。叔父の娘の藤壺が皇子を産んだ。現在は皇太子になっている。自分は出遅れてしまった。父も出遅れてしまった。父は叔父に負けた。自分のせいだ。自分は何としても皇子を産まなければならない。しかし、主上は自分を呼びたがらない。藤壺ばかり呼んでいる。最近は、若い宣耀殿をお気に召している。藤壺もあまりお呼びがかからなくなったそうだ。宣耀殿ばかり呼んでいるのだ。今夜もそうだ。もう四日も続けて呼んでいると少納言が言っていた。これでは、ますます自分が呼ばれることはない。宣耀殿を呪い殺してやりたい。寒い。なんでこんなに寒いのか?
宣耀殿女御はやっとの思いで清涼殿にたどり着いた。清涼殿は暖かかった。宣耀殿女御は不思議だった。ここへ来たら、すっかり悪寒が消え失せていた。さっきまでなんであんなに気分が悪かったのか、不思議だった。きっと弘徽殿の琵琶の音色と右近の取りなしのお陰だろう。宣耀殿女御は、知らなかった。彼女が信頼し、尊敬している者が、もっとも彼女を恨み、憎んでいることを。宣耀殿女御をもっとも嫌っていたのは、承香殿に住む斎宮女御であった。一番しそうもない人がすることが、一番残酷であった。藤壺の皇后や弘徽殿女御は、露骨に宣耀殿女御を嫌っていたし、実際、密かに呪詛していた。しかし、そのような呪詛というものは、思ったほど効果がないものである。顔に出し、口に出すうちに、心にこもるものが少なくなってしまうのである。斎宮女御は、顔にも口にも出さないから、身近に仕える女房たちでさえ、そういうことを知らない。斎宮女御はもっとも口の堅い女房にしか、そのことを知らせていない。それも、ある考えのために、その女房にだけ知らせたのである。こういう人の呪詛というものは、恐い。
主上はうれしそうに宣耀殿を迎えた。