按察

9
炭櫃の火を一番弱くしていたので、部屋の中は寒いぐらいだった。しかし、隣に気づかれるわけにはいかなったので、我慢した。
「そろそろお見えのようです」
中納言の君が耳打ちした。
「では、用意してください」
藤壺の皇后は端然と座っていた。しかし、心の中は乱れていた。
中納言の君は、もう一度不安そうな顔を皇后に見せた。
「皇后様、本当によろしいのですか?」
「宣耀殿は、私のところへ一度も挨拶に来ないのですから、私の方からこうやって顔を見てあげるのよ」
宣耀殿女御は、何度も藤壺に挨拶に来たのだが、皇后はそのたびに口実を設けて、門前払いした。中納言の君は、皇后の逆鱗に触れることを恐れ、このことは口にしなかった。
「皇后様、もしよろしければ、明日にでも私が宣耀殿女御様に、ご招待のお手紙でもお持ちいたしましょうか?」
「なぜ私がわざわざ宣耀殿を呼ぶために、手紙を書かなければならないの?」
「いえ、もちろん、私が代筆いたします」
「そういうことを言っているんじゃないでしょ? 私が宣耀殿を招く形ではなく、宣耀殿が私に会いに来る形でなければ、皇后の威厳がないじゃない? あなたは、私に、新参者のご機嫌取りをさせるつもり?」
中納言の君が、必死に謝って、皇后の怒りを静めていると、隣室でもの音がした。二人は黙った。中納言の君が壁にある小さな戸に手をかけ、おそるおそるずらした。これは昼のうちに開けさせた穴をふさぐための戸である。こちらは暗いから、あちらからは見えない。しかし、穴に気づかれないように、ほんの少しだけ戸を開けた。主上の背中が見える。その向こうに髪が長く、かわいらしい女性が座っていた。にこやかで女らしく、人なつこい表情である。後宮にいるどの女性よりも美しい方だと、中納言の君は率直に感じた。
肩を叩かれ、中納言の君は我に返った。すぐに皇后に場所を譲った。皇后は黙って、長い間、見入っていた。やがて、おもむろに穴から離れ、ごそごそ両手で探し物をしていたかと思うと、穴をふさぐ戸を全部開けて、叩きつけるようにして、何かを投げつけた。がしゃんとすごい音がして、何かが壊れた。宣耀殿女御は、両手を顔に当てて、うずくまったが、当たったわけではないようである。その横に、砕け散った食器があった。炭櫃にぶつかったようである。主上は女御に声をかけ、怪我がないか確かめている。女房たちが女御を連れて宣耀殿に戻った。女官たちが、部屋の掃除を始めた。戸が開き、明るくなった。主上に付いている女房たちが、皇后に何か訊いている。皇后は冷たい表情で黙りこくっている。主上も近寄ってきた。皇后は黙っている。
「あなたなのですね?」
皇后は涙を流し始めた。中納言の君は、こうなったら、仕方がないと思った。
「私です。私が食器を投げました」
主上は振り向いた。
「なぜ? なぜ、あなたはこんなことを」
「宣耀殿女御様は、私と同じ年で、父親の家柄、身分もそうたいして変わりません。それなのに、片や華やかな女御様、片やしがない女房風情……。女御様が、四晩も続けざまに主上のお召しになって、私、なぜだか無性に悔しくなりまして、もうわけもわからず、気がついたら、食器を投げておりました」
「あなたは、いったいなんということをしてくれたのですか? お父様がお聞きになったら、悲しみますよ」
今度は中納言の君が嗚咽した。中納言の君は、自分の運命を呪った。自分の一族の不幸な将来が悲しくなった。
「違うわ」
主上を始め、女房たちが一斉に皇后に振り返った。
「私がやったのよ。だって、そうじゃない? 大納言の娘風情で、主上のお情けにすがって、いい気になって、請われるままに、四日も続けて通うなんて、身の程知らずにもほどがあります。少しわからせなくてはと思いましたの」
皇后は泣きながら訴えた。
「そろそろお見えのようです」
中納言の君が耳打ちした。
「では、用意してください」
藤壺の皇后は端然と座っていた。しかし、心の中は乱れていた。
中納言の君は、もう一度不安そうな顔を皇后に見せた。
「皇后様、本当によろしいのですか?」
「宣耀殿は、私のところへ一度も挨拶に来ないのですから、私の方からこうやって顔を見てあげるのよ」
宣耀殿女御は、何度も藤壺に挨拶に来たのだが、皇后はそのたびに口実を設けて、門前払いした。中納言の君は、皇后の逆鱗に触れることを恐れ、このことは口にしなかった。
「皇后様、もしよろしければ、明日にでも私が宣耀殿女御様に、ご招待のお手紙でもお持ちいたしましょうか?」
「なぜ私がわざわざ宣耀殿を呼ぶために、手紙を書かなければならないの?」
「いえ、もちろん、私が代筆いたします」
「そういうことを言っているんじゃないでしょ? 私が宣耀殿を招く形ではなく、宣耀殿が私に会いに来る形でなければ、皇后の威厳がないじゃない? あなたは、私に、新参者のご機嫌取りをさせるつもり?」
中納言の君が、必死に謝って、皇后の怒りを静めていると、隣室でもの音がした。二人は黙った。中納言の君が壁にある小さな戸に手をかけ、おそるおそるずらした。これは昼のうちに開けさせた穴をふさぐための戸である。こちらは暗いから、あちらからは見えない。しかし、穴に気づかれないように、ほんの少しだけ戸を開けた。主上の背中が見える。その向こうに髪が長く、かわいらしい女性が座っていた。にこやかで女らしく、人なつこい表情である。後宮にいるどの女性よりも美しい方だと、中納言の君は率直に感じた。
肩を叩かれ、中納言の君は我に返った。すぐに皇后に場所を譲った。皇后は黙って、長い間、見入っていた。やがて、おもむろに穴から離れ、ごそごそ両手で探し物をしていたかと思うと、穴をふさぐ戸を全部開けて、叩きつけるようにして、何かを投げつけた。がしゃんとすごい音がして、何かが壊れた。宣耀殿女御は、両手を顔に当てて、うずくまったが、当たったわけではないようである。その横に、砕け散った食器があった。炭櫃にぶつかったようである。主上は女御に声をかけ、怪我がないか確かめている。女房たちが女御を連れて宣耀殿に戻った。女官たちが、部屋の掃除を始めた。戸が開き、明るくなった。主上に付いている女房たちが、皇后に何か訊いている。皇后は冷たい表情で黙りこくっている。主上も近寄ってきた。皇后は黙っている。
「あなたなのですね?」
皇后は涙を流し始めた。中納言の君は、こうなったら、仕方がないと思った。
「私です。私が食器を投げました」
主上は振り向いた。
「なぜ? なぜ、あなたはこんなことを」
「宣耀殿女御様は、私と同じ年で、父親の家柄、身分もそうたいして変わりません。それなのに、片や華やかな女御様、片やしがない女房風情……。女御様が、四晩も続けざまに主上のお召しになって、私、なぜだか無性に悔しくなりまして、もうわけもわからず、気がついたら、食器を投げておりました」
「あなたは、いったいなんということをしてくれたのですか? お父様がお聞きになったら、悲しみますよ」
今度は中納言の君が嗚咽した。中納言の君は、自分の運命を呪った。自分の一族の不幸な将来が悲しくなった。
「違うわ」
主上を始め、女房たちが一斉に皇后に振り返った。
「私がやったのよ。だって、そうじゃない? 大納言の娘風情で、主上のお情けにすがって、いい気になって、請われるままに、四日も続けて通うなんて、身の程知らずにもほどがあります。少しわからせなくてはと思いましたの」
皇后は泣きながら訴えた。