按察

14
山の端に月がだんだん近づいている。周囲は真っ暗である。四条通を歩く人は一人もいない。
衛門の母は起き出して、侍女の部屋に入る。侍女が眠そうに起きて、震えながら、衛門の部屋に入り、すぐ出てくる。白い息であくびをしながら、涙を流している。
「頭中将様」
衛門は寝具の上からそっと頭中将をさする。頭中将はまだ寝ていたいと言うが、衛門は起きるまで、根気よく声をかける。
「侍女が温かい飲み物を持ってきますから」
頭中将は寝ぼけて寝具の上に座っている。頭をかいていると、侍女が飲み物を運んできた。一口、二口と飲むうちに、頭がはっきりしてきた頭中将は、急いで身なりを整え始めた。頭中将は衛門と離れたくないと言いながら、侍女に送り出される。牛車はすっかり用意が終わっており、頭中将が乗り込むと、何事もないように動き出した。
暗くて寒い朝である。後朝の別れがこれほどつらいことはなかったと頭中将は思う。頭中将は衛門のぬくもりや匂いを何度も何度も思い出した。
仕事を始めても、衛門のことばかり考えていた。後朝の手紙はとっくに使いに持たせてあった。
夕ぐれのながれくるまを待つほどに涙おほゐの川とこそなれ
夕方になるのを待つのがつらくて、涙が大井川のように流れております。
早く衛門の返事が届かないかと、そればかりが気になって、失敗ばかりして、部下に注意され、たびたびやり直していた。
清涼殿に仕える女房たちと談笑していた少納言が、殿上の間に入ってきた。部下の蔵人と協議していた頭中将は、少納言に呼ばれ、そっと奥に入った。
「お返事が衛門様のお宅より届きました」
頭中将は少納言から手紙を受け取ると、すぐに開いた。
思ふことおほゐの川の夕ぐれは心にもあらずなかれこそすれ
あれこれと心配事が多すぎて、あなたを待つ夕方になると、涙がこぼれるのを抑えられなくなってしまうでしょう。
頭中将は頭弁(とうのべん)に頭を下げ、左大臣に頭を下げ、部下の何人かにも頭を下げ、宮中から出て行った。
あまりにも早い到着に、衛門の家は当惑した。衛門もまだ何の用意もしていなかったので、頭中将を寝殿の南庇(みなみびさし)に待たせ、化粧を始めた。
「どうぞ、こちらへお越しください」
西の対から侍女が来て、頭中将を案内した。渡殿を歩くとき、思いがけなく強い冬の日射しが、頭中将の目を射た。
几帳の向こうに衛門が座っていた。
「少々早くにお邪魔いたしまして、誠に申し訳ありません。あなたが涙をお流しになったら大変だと思い、夕方になる前にやって参りました」
几帳の向こうから、かわいらしい笑い声が聞こえてきた。
「夕暮れまで待てませんと私が申したら、あなたは昼間にお越しになるのですね。私がなにも言わなければ、きっと夕暮れにお越しになったのでしょう?」
「いいえ、私はできれば朝このお屋敷から出て行きたくなかったのです。仕事など行かずにこれからはずっとあなたの近くにおります」
「まあ、うれしいわ。でも、そうしたら、私たちはどうやって暮らしていきますの?」
「それは、その……」
「ふふ。いいわ。私があなたの代わりに女房でもなんでもして働きますわ」
「それではやっぱりいっしょにいられないではないですか」
頭中将は几帳の向こう側に回った。
「あら、そうね。困ったこと」
衛門は笑顔を向けた。
「二人とも働かずに、ずっといっしょにいればいいのです」
頭中将は衛門を引き寄せた。
「それでは貧しくなりますわ」
「あなたといっしょなら貧しくてもかまいません」
衛門の母は起き出して、侍女の部屋に入る。侍女が眠そうに起きて、震えながら、衛門の部屋に入り、すぐ出てくる。白い息であくびをしながら、涙を流している。
「頭中将様」
衛門は寝具の上からそっと頭中将をさする。頭中将はまだ寝ていたいと言うが、衛門は起きるまで、根気よく声をかける。
「侍女が温かい飲み物を持ってきますから」
頭中将は寝ぼけて寝具の上に座っている。頭をかいていると、侍女が飲み物を運んできた。一口、二口と飲むうちに、頭がはっきりしてきた頭中将は、急いで身なりを整え始めた。頭中将は衛門と離れたくないと言いながら、侍女に送り出される。牛車はすっかり用意が終わっており、頭中将が乗り込むと、何事もないように動き出した。
暗くて寒い朝である。後朝の別れがこれほどつらいことはなかったと頭中将は思う。頭中将は衛門のぬくもりや匂いを何度も何度も思い出した。
仕事を始めても、衛門のことばかり考えていた。後朝の手紙はとっくに使いに持たせてあった。
夕ぐれのながれくるまを待つほどに涙おほゐの川とこそなれ
夕方になるのを待つのがつらくて、涙が大井川のように流れております。
早く衛門の返事が届かないかと、そればかりが気になって、失敗ばかりして、部下に注意され、たびたびやり直していた。
清涼殿に仕える女房たちと談笑していた少納言が、殿上の間に入ってきた。部下の蔵人と協議していた頭中将は、少納言に呼ばれ、そっと奥に入った。
「お返事が衛門様のお宅より届きました」
頭中将は少納言から手紙を受け取ると、すぐに開いた。
思ふことおほゐの川の夕ぐれは心にもあらずなかれこそすれ
あれこれと心配事が多すぎて、あなたを待つ夕方になると、涙がこぼれるのを抑えられなくなってしまうでしょう。
頭中将は頭弁(とうのべん)に頭を下げ、左大臣に頭を下げ、部下の何人かにも頭を下げ、宮中から出て行った。
あまりにも早い到着に、衛門の家は当惑した。衛門もまだ何の用意もしていなかったので、頭中将を寝殿の南庇(みなみびさし)に待たせ、化粧を始めた。
「どうぞ、こちらへお越しください」
西の対から侍女が来て、頭中将を案内した。渡殿を歩くとき、思いがけなく強い冬の日射しが、頭中将の目を射た。
几帳の向こうに衛門が座っていた。
「少々早くにお邪魔いたしまして、誠に申し訳ありません。あなたが涙をお流しになったら大変だと思い、夕方になる前にやって参りました」
几帳の向こうから、かわいらしい笑い声が聞こえてきた。
「夕暮れまで待てませんと私が申したら、あなたは昼間にお越しになるのですね。私がなにも言わなければ、きっと夕暮れにお越しになったのでしょう?」
「いいえ、私はできれば朝このお屋敷から出て行きたくなかったのです。仕事など行かずにこれからはずっとあなたの近くにおります」
「まあ、うれしいわ。でも、そうしたら、私たちはどうやって暮らしていきますの?」
「それは、その……」
「ふふ。いいわ。私があなたの代わりに女房でもなんでもして働きますわ」
「それではやっぱりいっしょにいられないではないですか」
頭中将は几帳の向こう側に回った。
「あら、そうね。困ったこと」
衛門は笑顔を向けた。
「二人とも働かずに、ずっといっしょにいればいいのです」
頭中将は衛門を引き寄せた。
「それでは貧しくなりますわ」
「あなたといっしょなら貧しくてもかまいません」