按察

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15

 寒い四条通を牛車が音を立てて走りすぎる。他に人影はない。月は山の端からはだいぶ高いところに輝いている。
 後朝の別れはやはり今日もつらかったが、二日目になると、頭中将は少し冷静に受け止められるようになってきた。あれほど自分に対して冷淡だった衛門が、親密な言葉を口にするようになって、少し安心したためだった。しかし、それでも、かわいい衛門との別れがつらいことには変わりがない。今日も早退したいと思ったが、まさか二日連続で早退願いを出すわけにはいかなかった。
 職場に着くと、左大臣が寄ってきた。左大臣は頭中将の父である。もちろん皇后の父でもある。娘が皇后になり、皇太子もあるので、左大臣は早く頭中将に昇進してほしかった。頭中将の初めの妻にはすでに男の子が一人生まれている。しかし、女の子はまだいなかった。左大臣は、できれば頭中将に、あと二、三人妻を持ってほしかった。衛門は待望の二人目の妻であった。左大臣は頭中将が衛門とうまく行くように、手を尽くしていた。できれば、自分が生きているうちに、頭中将の娘を入内させたかった。左大臣は病気を持っていた。左大臣は焦っていた。
「おい、頭中将、今日は早退しなくてもいいのか?」
 頭中将は顔を赤らめた。
「昨日は大変失礼いたしました。急な用事ができてしまったものですから。しかし、今日は大丈夫です」
 頭中将は実の親であっても、職場では丁寧な言葉を使っていた。それに、職場の者にはまだ結婚のことは知られたくなかったので、余計改まった言い方になるのだった。
「しかし、向こうさんは、会いたがっているんじゃないのか?」
「いえ、大丈夫であります。夕方まで待つよう、よく言い聞かせており……。いや、あの、そのですね」
 頭中将の頭から湯気が湧いていた。
「ははははは。冗談だよ。でも、本当に遠慮せんでも構わんよ。早退ぐらい、好きなだけとりたまえ。あなたがいなくても、優秀な頭弁(とうのべん)がいるから、蔵人所は、なんの心配もいらんのだよ」
「いや、そんなことおっしゃらないでください。まるで私が役に立たないみたいではありませんか?」
「そうは言っておらんよ。ただね、場合が場合だからね」
 左大臣が早退願いを出してきて、無理矢理頭中将に書かせ、職場から追い出してしまった。
 いくらなんでも今四条に行ったら、本人はもちろん、親もあきれるだろうと思い、とりあえず藤壺の姉のところで暇を潰そうと思った。
 入口で来訪を告げると、奥から出てきたのは中納言の君だった。
「中納言の君……」
 中納言の君は顔を赤らめた。
「皇后様でございましょうか?」
「あ、はい。いらっしゃいますか」
「はい。少々お待ちくださいませ」
 中納言の君は顔を伏せて、奥へ入ろうとした。
「あの、ちょっといいかな」
「なんでしょうか?」
 中納言の君は顔を伏せたまま返事をした。
「ほんとうに、今回の件は、すまなかった。でも、そうするしか……」
「頭中将様がお謝りになることはありませんわ。私を皇后様にお仕えする機会を作ってくださったことに感謝しなければと思っています」
「ほんとうは、私は、あなたを……」
「もうなにもおっしゃらないで。私、今、とても幸せです。だから、あなたも幸せになってください」
 中納言の君は早足で奥に入った。頭中将はその後ろ姿を見送った。
 しばらくすると、別の女房が出てきて、奥に案内した。中納言の君にいろいろ言っておきたいことがあった頭中将は、複雑な気持ちでその女房のあとを付いていった。皇后の部屋に入ると、女房がたくさんいたが、中納言の君はいなかった。そのことを言おうとすると、皇后が先に口を開いた。
「衛門とは、よかったわね」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日