按察

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18

 襖(ふすま)障子の近くの廂(ひさし)に安芸がじっと座っているのを見て、右近は声をかけた。
「あら、あとは私が引き受けるから、安芸は奥で休んでいていいわ」
「いえ、なにかご用があったら呼んでくださいと、上に申した手前がありますから、ここは私にお任せくださいませ」
「そう、感心ね。あなたもすっかり慣れてきたのね」
「ありがとうございます」
 右近は昨年来たばかりの安芸守(あきのかみ)の娘が、すっかり成長したことに驚いていた。昨年はあどけなく、もじもじしてばかりいたが、年が明けたころから、一人前の女房のように振る舞えるようになってきた。襖障子の中では、僧都が宣耀殿女御になにか言っていたが、ここからだとよく聞こえなかった。
 ほんとうは主人に来客が来たとき、傍に控えるのは右近の役目だったが、安芸に甘えて、奥で休ませてもらおうと思った。このところ歌合の予選会の準備に追われ、右近は疲れていた。宣耀殿女御の次に歌の名手であり、また、歌に関する知識も豊かだったから、公卿や殿上人の相手には欠かすことができないのだった。
「じゃあ、お言葉に甘えて、奥で休ませてもらうわ。なにか私が必要なことがあったら、遠慮なく呼んでちょうだいね」
「はい」
 そのうちに中から人を呼ぶ声がする。宣耀殿女御の声だ。
「ただいま」
 安芸は答えるやいなや襖障子を開けた。女御の前に出ると、かしこまった。
「安芸、先ほど斎宮女御様からいただいた椿餅を持ってきてちょうだい」
「はい、それで、おいくつぐらいお持ちいたしましょうか」
 すでに僧都の前には椿餅が置かれている。だが、僧都は手をつけていない。僧都に持たせるためなのか、なんのためなのか、判然としない。
「あるだけ全部よ。それから、女房たちには椿餅を食べないように言ってちょうだい。食べてしまったものは仕方ないけど、食べかけのものは、ここへ持ってきてちょうだい」
「食べかけのものもですか?」
 安芸は不思議そうな顔をしている。
「そうよ、はやく、みんなが食べないうちに、持ってきて」
「かしこまりました」
 安芸はお辞儀をして、いったん退出した。
 その安芸の後ろ姿を僧都は静かに見ている。
 すぐに安芸が椿餅を持ってくる。数は少なくなっていたが、それでもかなり残っていた。食べかけのものもいくつかあった。
「これでよろしいのですか」
「はい」
 僧都は椿餅を子細に眺めている。
「なにかわかりますか?」
「持ち帰って、よく調べてみないことには、なんとも言えません」
「でも、私はほんとうになんともないのですよ」
「しばらく様子を見てください」
 僧都は安芸が渡した袋の中に椿餅をしまうと、帰っていった。
「どうなさったのですか」
 安芸は心配そうな顔で訊いた。
「なんでもないの。僧都にはなにかお考えがあるみたいなのだけど、はっきりおっしゃらないから、よくわからないのよ」
 その日、右近が苦しみ始めた。ひどい腹痛に襲われ、数日間寝込んだ。
 数日後にそのことを僧都に言うと、僧都は首をかしげた。
「椿餅を丹念に調べましたが、なにもわかりませんでした」
 僧都は薬草の知識が豊富である。特に、先帝が毒殺されてからは、採集や研究にいっそう熱心になった。弟や姪や甥に魔手が伸びるのを防ぐためである。魔手は意外なところから伸びる。まさか斎宮女御から毒薬が届くとは思いも寄らなかったと、僧都は率直に驚いてみせた。
「斎宮女御様からは、これまでもたくさん頂き物が参りましたが、今までおかしなことはなにもありませんでしたよ」
「油断させるためでしょうな」
 僧都は悔しそうに眉間に皺を寄せた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日