按察

20
橘の香るさわやかな季節になった。しかし、麗景殿では、今日も女御のかきむしる琴の音が、人々の気持ちを落ち着かなくさせる。麗景殿女御は先々帝の皇子の娘で、帝に入内したのは、皇后、斎宮女御の次で、弘徽殿女御の前である。内親王と親王を産んでいる。しかし、その後、子に恵まれず、親王は皇太子になれなかった。そのうえ、近頃は宣耀殿女御が厚く寵愛され、今日にも明日にも出産を迎えるという話である。もし親王が産まれた場合、帝の寵愛ぶりを考えると、皇太子の次に大切に扱われる可能性は高い。宣耀殿女御の父は現在でこそ権大納言だが、関白や左大臣の弟であり、帝の信任も厚い。将来どういうことが起こるかわからないが、宣耀殿女御に男皇子ができるということは、彼女にとって非常に有利なことであり、自分にとって非常に不利なことであった。親王の娘であるといっても、摂関家の娘たちを前にしては、現在のこの世界では、まったくなんの意味もないことである。故関白の長男は現在関白であり、娘は弘徽殿女御である。この娘に子がなかったことが、麗景殿女御にとって、大いに救いになることであった。弘徽殿女御に男皇子がいたら、自分の将来は絶望的であった。そうでなかったことだけは、ほんとうによかったと、麗景殿女御は常々思う。しかし、故関白の次男は現在左大臣であり、娘は皇后になった。目下、この皇后にかなうものはない。皇后は、皇太子以外にも、たくさんの親王や内親王に恵まれている。だが、世の中なにが起こるかわからない。疫病の流行やらなにやら、不幸が重なって、繁栄を極める一家が没落した例もあるのだ。今まで自分にそう言って、長い間耐え忍んできたのである。そして、そう厚いものではなくても、帝から寵愛を賜り続ければ、皇后ほどでなくても、多くの子宝に恵まれるだろう。そう自分を慰めながら、必死に帝に仕え続けていたが、最近では帝の寵愛を受けることはまれである。今いる親王と内親王の他に子ができる兆候はまったくない。それに引き換え、宣耀殿女御は、頻繁に寵愛を受け、ついに、子まで設けたらしい。自分にとって弘徽殿女御は憎しみの対象ではない。子ができずに気の毒だと思うくらいだ。皇后は憎いのは憎いが、あまりにも敵が強いと、人は敵対心が起こらないものだ。それに、皇后は気が強く、復讐心も強い。こういう人には逆らわない方がいいと、麗景殿女御は理解している。それに比べると、宣耀殿女御は、家格がやや劣り、自分にも十分対抗しうる相手だという気がするのである。性格が穏やかなせいかわからないが、彼女の顔を見ると、なにかつい仕掛けたくなるのである。頭がよくて、和歌の名人、後宮で一番の美人だというのが、もっぱらの世間の評判である。とにかく、そういうところが、弘徽殿女御にも皇后にも感じない、いらだちを感じさせるのである。なんとか流産させられないかと腹心の部下に秘密の指示を与えているが、目に見えた効果は上がっていないようである。おっとりしているように見える宣耀殿女御もそこはしっかりしているようである。宣耀殿にだれかをもぐりこませようとしても、なかなか隙がないらしい。宣耀殿の伯父が密かに庇護しているそうだ。先帝の崩御に伴って出家し、政界から身を引いたことにはなっているが、それはその方が動きやすいからであって、実際、宣耀殿の伯父の僧都は、各地の有力な荘園と手を結び、強固な地盤をものにしているらしい。宣耀殿も腕の立つ武士たちにそれとなく警護されているから、簡単に内部に入って、おかしなまねをするわけにはいかないのだそうだ。こういう新たな力を使う者は、もちろんいないことはないが、この僧都はその使い方がとりわけうまいのだと言う。そんな話を聞くとますます宣耀殿が憎らしくなる。憎らしいが私にできることはなにもない。せいぜいこの思いを晴らすために琴をかき鳴らすぐらい。麗景殿女御は今日も琴を弾き鳴らしながら、こういったことを、繰り返し繰り返し思い巡らしていた。遠くの方から歓声が、橘の花の香りに乗って、この麗景殿にも入ってきたが、麗景殿女御は、自分の弾いている琴の音のために、それにはまったく気づかなかった。
「無事に皇子誕生でございます」
清涼殿で使者が言上した。
「無事に皇子誕生でございます」
清涼殿で使者が言上した。