按察

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21

 藤壺ではささやかな家族団欒の昼食会が開かれた。皇后の父左大臣が親王たちの絵を描いてほしいと、宴席で大納言になんの気なしに頼んだのがきっかけだった。大納言は、酔って調子に乗って引き受けたことを、今さら後悔していた。
 夏の風に木々が揺れている。清涼殿あたりを歩いているときからもうすでになにか鳥の鳴き声のようなものが聞こえてきていたが、藤壺に近づくと、それはさらにはっきり聞こえてきた。どうやら時鳥(ほととぎす)らしい。
「キョッキョッキョキョキョキョ、キョッキョッキョキョキョキョ」
 大納言が藤壺の庭に入ると、声はうるさいほどであった。
「いい時鳥の声ですね」
 人の姿が目に入ったので、そう言いかけて、大納言の声がぴたっと止まった。
「キョッキョッキョキョキョキョ、キョッキョッキョキョキョキョ」
 声は、時鳥ではなくて、皇太子のものであった。皇太子は大納言が声をかけたのにも気づかず、「キョッキョッキョキョキョキョ」を繰り返していた。
 大納言は直立不動のまま、まっすぐに皇太子が鳴きまねするのを見守った。
 女性のような白い肌、端整な顔立ち、見ているだけだと、英明な君主を予感させる。しかし、ひとたび皇太子が口を開いてなにか言い始めると、そのうちにだれもが対応に苦慮することになるのだった。皇太子は常人とは明らかに違うところがあった。そして、それは、決して皇太子の美点とはなり得ないものであった。その程度は、元服後、次第に著しくなってきた。
 そのうちに皇太子は鳴きまねをやめ、ぴたっと視線を大納言に向けた。
「ちょっと遅い時鳥だったかな」
 そう言って、皇太子は大納言に笑顔を見せた。
「ええ、いささか遅くはございますが、しかし、春宮(とうぐう)様、よいお声でございますね」
 皇太子は両足でぴょんぴょん跳ねながら前に進み、両腕をぴんと斜めに伸ばして、口をとがらかせた。
「キョッキョッキョキョキョキョ、キョッキョッキョキョキョキョ」
 大納言はなにげなく皇太子の左足を見た。血が流れていた。右足を見ると、右足も流れている。
「春宮様、大変でございます。おみ足から血が流れておりますぞ」
「蹴鞠をしたんだ」
 皇太子は後ろを振り返りもせずに言った。
「蹴鞠?」
「春宮様は、何時間も鞠をお蹴りになっていたのでございます」
 後ろから女房の声が聞こえた。
「とても凝り性でいらっしゃるから、一つのことに熱中すると、だれがなにを申し上げても、だめなんでございますのよ」
「しかし、血が出るまでとは……」
「春宮様、大納言様がいらしたから、そろそろお召し替えをなさりませんと」
 女房は皇太子に近寄り、柔らかく言った。
「わかった」
 皇太子は素直に女房に従い、屋内に入っていった。
 藤壺の中は人とものにあふれていた。ごちゃごちゃしているわけではないが、整然としているとは言いがたい。これはあまり細かいことにこだわらない皇后の人柄のためであろう。皇后は親しい者には人情味がすぎる面があり、侍女たちに甘くなりがちであった。普段あまり侍女たちに細かいことを言ったりしないので、性格の大雑把な女房などの中には、あちこちにものを出しっぱなしにして平気な者までいる。
「最近は特にひどくなっているんだよ」
 高級な食材が無造作に並べられている膳で、左大臣が向かい側の大納言に眉を「ハの字」にしながら言った。
「やっぱり皇太子は無理だったんじゃないかしら」
 煮豆が口の中に入ったまま、皇后は父左大臣に言った。
「今から二宮(にのみや)に替えるわけにはいかんだろうか」
「それはちと難しかろうと思われます」
 大納言が硬い表情で答えた。
「少し貴公に智恵をしぼってもらえまいか」
 大納言はうなった。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日