按察

23
さわやかな夜であった。川波は優しいし、料理はおいしいし、酒を注ぐ娘はたおやかであった。
頭中将はすっかりご機嫌になっていた。乳母子の惟範(これのり)の知り合いは、河内源氏だった。河内源氏は、河内を拠点とする武士で、京の政界を軍事面で支えていた。その棟梁が摂津守に任命され、畿内一帯ににらみを利かせていた。その摂津守が頭中将の目の前にいる。
「これからの時代は、あなたのような方に活躍していただかねばなりません」
「私など、ほんの青二才ですから、なにも活躍などできませんよ」
「いやいやとんでもございません。お若いのに、肝が据わっていらっしゃって、気配りがおできになって、とにかく人の二倍も三倍もお仕事をなさっていると、人々が申しておりますよ」
摂津守は、武士の頭領だが、見た印象は、あまり武人らしくない。もちろん上背があり、腕などは丸太のようだが、縫腋袍(ほうえきのほう)に身を包み、腰を低くしている。
縫腋袍とは、上衣の脇を縫い付けてあるもので、これに対して、脇を縫い付けていないものを、闕腋袍(けってきのほう)という。脇を縫い付けていない闕腋袍は、当然体が動きやすい。馬に乗るときなど、便利である。だから、主に武官が着用する上衣になっている。武士は基本的に闕腋袍を着用する。それに対して、文官が着用するものが、縫腋袍である。摂津守は武士だから、当然闕腋袍を着用しているはずである。もちろん、昔は摂津守も闕腋袍ばかり着ていた。ところが、武士も国司などになると、話が違ってくる。特に摂津などは上国であるから、その守の位階は、従五位になる。れっきとした殿上人である。参内するときには縫腋袍を着用する。摂津守の日常は、公卿と会い、諸々の相談事をすることが多くなってきたから、そのときはやはり縫腋袍を着用する。今日のように頭中将と懇親するときは、まさにそうなる。つまり、摂津守は、もはやほとんど武官ではなく、文官なのである。本来、武官なのに、その日常生活が文官のものになっている者は、なにも摂津守だけではない。大勢の武士を束ね、国司などを拝している者は、皆そうであった。摂関家や公卿との付き合いが多く、ほとんど京で生活しているので、もはや貴族と言っても間違いではなかった。一言で言えば、軍事貴族である。こういった軍事貴族の大御所が、京には三、四あった。摂津守はそのうちの一人である。軍事貴族たちは、将来有望株の公卿や殿上人に目星を付けたら、信頼関係の構築に手を尽くす。摂津守は、勘のいい男であった。彼の嗅覚は頭中将になにかを感じとった。摂関家の御曹司の中では、現時点において、それほど目立つ存在ではなかった。だから、他に軍事貴族で、頭中将に関心を強く示している者はない。
摂津守は、いつも思っていた。だれもが有望だと感じる人に投資を行っても、利益は少ない。なぜなら、投資をしている者が多いから、その有望株が利益を還元するときは、支援者に分配せざるを得ない。利益がどんなに大きなものであっても、多数の支援者に分けてしまえば、それほどうまみのあることは、少ない。だから、みんなが飛びつくようなわかりやすい人に投資するのは、安全ではあるが、つまらない。関白、左大臣、権大納言に投資する人はやはり多かった。特に、皇后を擁する左大臣が人気であった。関白の娘女御は皇子がいないので、少し人気がなかった。権大納言の娘女御は皇子がいるが、まだ小さいので、手控えられていた。やはり、左大臣が一番人気だ。続いて、左大臣の長男の権中納言が人気であった。それはもう、今をときめく左大臣の長男は、手堅い投資先であった。実際、権中納言は、学問もでき、和歌も上手で、帝や皇太子、親王たちにも慕われていた。一方、権中納言の弟の頭中将は、学問はそれほどでもなく、和歌はうまい方ではなく、社交術が巧みではなかった。頭中将のことが好きな人は非常に好意を持つが、嫌いな人は非常に憎んだ。こういう人に投資するのは、安全ではない。だから、今まで軍事貴族の大御所などは、接近することがなかった。しかし、摂津守の長大な計画に、この頭中将のような男は、欠かすことはできなかった。
頭中将はすっかりご機嫌になっていた。乳母子の惟範(これのり)の知り合いは、河内源氏だった。河内源氏は、河内を拠点とする武士で、京の政界を軍事面で支えていた。その棟梁が摂津守に任命され、畿内一帯ににらみを利かせていた。その摂津守が頭中将の目の前にいる。
「これからの時代は、あなたのような方に活躍していただかねばなりません」
「私など、ほんの青二才ですから、なにも活躍などできませんよ」
「いやいやとんでもございません。お若いのに、肝が据わっていらっしゃって、気配りがおできになって、とにかく人の二倍も三倍もお仕事をなさっていると、人々が申しておりますよ」
摂津守は、武士の頭領だが、見た印象は、あまり武人らしくない。もちろん上背があり、腕などは丸太のようだが、縫腋袍(ほうえきのほう)に身を包み、腰を低くしている。
縫腋袍とは、上衣の脇を縫い付けてあるもので、これに対して、脇を縫い付けていないものを、闕腋袍(けってきのほう)という。脇を縫い付けていない闕腋袍は、当然体が動きやすい。馬に乗るときなど、便利である。だから、主に武官が着用する上衣になっている。武士は基本的に闕腋袍を着用する。それに対して、文官が着用するものが、縫腋袍である。摂津守は武士だから、当然闕腋袍を着用しているはずである。もちろん、昔は摂津守も闕腋袍ばかり着ていた。ところが、武士も国司などになると、話が違ってくる。特に摂津などは上国であるから、その守の位階は、従五位になる。れっきとした殿上人である。参内するときには縫腋袍を着用する。摂津守の日常は、公卿と会い、諸々の相談事をすることが多くなってきたから、そのときはやはり縫腋袍を着用する。今日のように頭中将と懇親するときは、まさにそうなる。つまり、摂津守は、もはやほとんど武官ではなく、文官なのである。本来、武官なのに、その日常生活が文官のものになっている者は、なにも摂津守だけではない。大勢の武士を束ね、国司などを拝している者は、皆そうであった。摂関家や公卿との付き合いが多く、ほとんど京で生活しているので、もはや貴族と言っても間違いではなかった。一言で言えば、軍事貴族である。こういった軍事貴族の大御所が、京には三、四あった。摂津守はそのうちの一人である。軍事貴族たちは、将来有望株の公卿や殿上人に目星を付けたら、信頼関係の構築に手を尽くす。摂津守は、勘のいい男であった。彼の嗅覚は頭中将になにかを感じとった。摂関家の御曹司の中では、現時点において、それほど目立つ存在ではなかった。だから、他に軍事貴族で、頭中将に関心を強く示している者はない。
摂津守は、いつも思っていた。だれもが有望だと感じる人に投資を行っても、利益は少ない。なぜなら、投資をしている者が多いから、その有望株が利益を還元するときは、支援者に分配せざるを得ない。利益がどんなに大きなものであっても、多数の支援者に分けてしまえば、それほどうまみのあることは、少ない。だから、みんなが飛びつくようなわかりやすい人に投資するのは、安全ではあるが、つまらない。関白、左大臣、権大納言に投資する人はやはり多かった。特に、皇后を擁する左大臣が人気であった。関白の娘女御は皇子がいないので、少し人気がなかった。権大納言の娘女御は皇子がいるが、まだ小さいので、手控えられていた。やはり、左大臣が一番人気だ。続いて、左大臣の長男の権中納言が人気であった。それはもう、今をときめく左大臣の長男は、手堅い投資先であった。実際、権中納言は、学問もでき、和歌も上手で、帝や皇太子、親王たちにも慕われていた。一方、権中納言の弟の頭中将は、学問はそれほどでもなく、和歌はうまい方ではなく、社交術が巧みではなかった。頭中将のことが好きな人は非常に好意を持つが、嫌いな人は非常に憎んだ。こういう人に投資するのは、安全ではない。だから、今まで軍事貴族の大御所などは、接近することがなかった。しかし、摂津守の長大な計画に、この頭中将のような男は、欠かすことはできなかった。