按察

26
凍りつくような風を切って馬が走る。呼吸が荒い。この寒いのに、汗が流れている。鞍の上で大納言は、鞭を打った。これ以上飛ばすのは危険であった。しかし、大納言は飛ばさずにはいられなかった。二宮を皇太子にすることは見送られた。
理由はもっともなことばかりだった。すでに決定した皇太子を安易に変更することは、将来的に重大な問題を引き起こしかねないゆゆしきことである。現皇太子は、長子であり、帝位継承者となることは、きわめて自然なことである。帝位を継承する際に、皇太子の経験の浅さに若干の配慮を要すべきことがあったとしても、それは、臣下の補佐によって、十分配慮可能と考えられる。
(経験の浅さとは、よく言ったものである)
大納言は唇を噛んだ。
誰が見ても、皇太子の精神は普通ではない。関白が補佐をすれば配慮が可能だと言っても、ものには限度というものがあるだろう。あれが問題ないとすれば、もう帝など、誰でもよくなってしまう。赤ん坊でもよいというのか? まさか!
大納言は、そこまで考えて、はっとした。
(そのまさかかもしれない)
鞭を握る手が汗ばんだ。
赤ん坊であれば、天皇の意向はほとんど完全に政策に反映されない。これは補佐する者にとって、都合がよい。補佐する者の思惑がほとんどそのまま政策に反映できるからである。
大納言はまた激しい鞭を加えた。馬は苦しそうな声を出したが、それでもすばらしい速度で坂を上っていった。
(赤ん坊や子ども同然の者を帝位に就けて、政治を意のままに操るつもりか?)
関白の考えていることではないと、大納言は思った。関白は、あくまでも政治というものは、帝が主導するものであり、関白と言えども、帝の意向を越えて、自分の思惑を政治に反映すべきではないと、いつも言っている。左大臣でもない。左大臣の娘の皇后でもない。左大臣と皇后は、自分たちの血筋を帝にしたいと望んでいるが、帝の意志をないがしろにしようとまで思っているわけではない。
馬は全力で走っていた。木や藪が猛烈な速度で後ろに飛んでいった。
関白も左大臣も皇后も一宮(いちのみや)から二宮へ皇太子を変更し、大納言がその補佐をすることを望んでいた。大納言はそのことをまた考えた。このことを考えると、次に考えるのは決まっていた。大納言は先々帝の長男だった。母が藤原氏でないから、皇太子になれなかった。関白や左大臣の祖父の故関白の娘が産んだ皇子が皇太子になり、その後、帝位に就いた。大納言は臣籍降下し、源氏になった。誰もが惜しんだ。ほんとうは大納言が帝位に就き、ねじれ歪んだ世の中を直すべきだった。今でもそういうことを言う人が多いのだった。現在の関白や左大臣も、大納言の政治手腕を認めていた。課題山積の日本に大なたを振るえるのは大納言しかいない。関白や左大臣はそう考えている。聡明な二宮が帝位に就き、源氏の大納言がその補佐をすることに、関白や左大臣は難色を示さないどころか、大いに賛成していた。皇后にとっては、二宮も自分の子であるから、その子が帝になるのであれば、その補佐役が伯父や父から、源氏の大納言に替わることは、受け入れられないことではなかった。まして大納言は皇后も厚く信頼している人物であったから、なおさらそうであった。
馬の速度が落ちた。鞭を与えるのをやめたのだ。大納言は馬を休ませる必要があることに、やっと気付いた。前を見るともう琵琶湖に来ていた。大納言は、いやなことがあると、琵琶湖まで馬を飛ばすのが、ならいであった。どこまでも広がる水が、いやな気分を吸い取ってくれるような気がした。
(しかし、なぜ、関白と左大臣と皇后の気持ちが変わったのだろう?)
今日になったら、左大臣に告げられた。努力したのだが、皇太子の変更は難しそうだと。昨日まではもう根回しも終わっているから、二宮は皇太子に必ずなると言っていたのに。
(関白と左大臣と皇后より影響力がある者がいるのか? まさか?)
理由はもっともなことばかりだった。すでに決定した皇太子を安易に変更することは、将来的に重大な問題を引き起こしかねないゆゆしきことである。現皇太子は、長子であり、帝位継承者となることは、きわめて自然なことである。帝位を継承する際に、皇太子の経験の浅さに若干の配慮を要すべきことがあったとしても、それは、臣下の補佐によって、十分配慮可能と考えられる。
(経験の浅さとは、よく言ったものである)
大納言は唇を噛んだ。
誰が見ても、皇太子の精神は普通ではない。関白が補佐をすれば配慮が可能だと言っても、ものには限度というものがあるだろう。あれが問題ないとすれば、もう帝など、誰でもよくなってしまう。赤ん坊でもよいというのか? まさか!
大納言は、そこまで考えて、はっとした。
(そのまさかかもしれない)
鞭を握る手が汗ばんだ。
赤ん坊であれば、天皇の意向はほとんど完全に政策に反映されない。これは補佐する者にとって、都合がよい。補佐する者の思惑がほとんどそのまま政策に反映できるからである。
大納言はまた激しい鞭を加えた。馬は苦しそうな声を出したが、それでもすばらしい速度で坂を上っていった。
(赤ん坊や子ども同然の者を帝位に就けて、政治を意のままに操るつもりか?)
関白の考えていることではないと、大納言は思った。関白は、あくまでも政治というものは、帝が主導するものであり、関白と言えども、帝の意向を越えて、自分の思惑を政治に反映すべきではないと、いつも言っている。左大臣でもない。左大臣の娘の皇后でもない。左大臣と皇后は、自分たちの血筋を帝にしたいと望んでいるが、帝の意志をないがしろにしようとまで思っているわけではない。
馬は全力で走っていた。木や藪が猛烈な速度で後ろに飛んでいった。
関白も左大臣も皇后も一宮(いちのみや)から二宮へ皇太子を変更し、大納言がその補佐をすることを望んでいた。大納言はそのことをまた考えた。このことを考えると、次に考えるのは決まっていた。大納言は先々帝の長男だった。母が藤原氏でないから、皇太子になれなかった。関白や左大臣の祖父の故関白の娘が産んだ皇子が皇太子になり、その後、帝位に就いた。大納言は臣籍降下し、源氏になった。誰もが惜しんだ。ほんとうは大納言が帝位に就き、ねじれ歪んだ世の中を直すべきだった。今でもそういうことを言う人が多いのだった。現在の関白や左大臣も、大納言の政治手腕を認めていた。課題山積の日本に大なたを振るえるのは大納言しかいない。関白や左大臣はそう考えている。聡明な二宮が帝位に就き、源氏の大納言がその補佐をすることに、関白や左大臣は難色を示さないどころか、大いに賛成していた。皇后にとっては、二宮も自分の子であるから、その子が帝になるのであれば、その補佐役が伯父や父から、源氏の大納言に替わることは、受け入れられないことではなかった。まして大納言は皇后も厚く信頼している人物であったから、なおさらそうであった。
馬の速度が落ちた。鞭を与えるのをやめたのだ。大納言は馬を休ませる必要があることに、やっと気付いた。前を見るともう琵琶湖に来ていた。大納言は、いやなことがあると、琵琶湖まで馬を飛ばすのが、ならいであった。どこまでも広がる水が、いやな気分を吸い取ってくれるような気がした。
(しかし、なぜ、関白と左大臣と皇后の気持ちが変わったのだろう?)
今日になったら、左大臣に告げられた。努力したのだが、皇太子の変更は難しそうだと。昨日まではもう根回しも終わっているから、二宮は皇太子に必ずなると言っていたのに。
(関白と左大臣と皇后より影響力がある者がいるのか? まさか?)