按察

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28

 家の中は暖かかった。弓姫の部屋はさらに暖かい気がした。弓姫(ゆき)といっしょにいると、心が安まった。
「なにか召し上がる物を運ばせましょうか?」
 弓姫の体が温かかった。なにかを食べるとなると、寝具から出て、衣服を着けなければならない。できれば、そうせずに、こうして弓姫に身を寄せていたかった。しかし、久しぶりに弓姫と会い、存分に思いを遂げたので、体は著しく消耗していた。やはり、なにか食べたかった。
「そうだな」
 弓姫が離れ、寝具にすうっと風が入りこんだ。それは、寒くはなかった。心地よかった。弓姫はもう身だしなみを整え、侍女を呼んでいた。侍女はすぐに戸の前に立った。おそるおそる戸を少し開けて、顔を出して、用向きを訊いた。
「粥と、鮎かなにかあるかしら? あ、お酒も少し、温かくして」
「かしこまりました」
 侍女は戸を閉めて、去っていった。大納言は横になったまま、左側の顔を左手で支え、二人のやりとりを見ていたが、静かに起きあがり、身支度を整えた。
 今は、こうして弓姫と過ごす時間が、なによりも楽しみだ。大納言は思った。しかし、この時間がこれからも続けられるのか、わからなかった。やはり、世の中は、不穏な情勢に変わっているようだった。掾(じよう)は特に変わったことはないと言いながら、いくつか新たな動きについて報告した。大納言はその中で、二、三の動きが気になった。摂津守が若手に声をかけ始めたことと、僧都が頻繁に播磨に往復していること、式部卿宮に三河がよく会っていることがそれだった。たしかに、掾が言うとおり、これらの動き自体は、どれもかすかなもので、大概の者は、気にも留めないかもしれない。しかし、世の中の本質というものがわかっている者にとっては、決して見逃すことのできない動きであった。掾は昔から、人を試す。それは、かつての近江権守(おうみのごんのかみ)が大納言になった今でも、まったく変わらない。感覚が鈍っていないかどうか、いつも気にしているのだ。重要な情報とつまらない情報を峻別できない相手だったら、知らず知らずに距離を取っていくのが、近江掾のやり方だった。大納言は常に掾の試験に優秀な成績で合格していた。大納言は、この三つの動きに関して、的確に掾に質問した。
「摂津はだれに声をかけている?」
「そこまではわかりません。最近、羽振りのよい殿上人がおりませんか」
「頭中将が側室に邸宅を新築してやったというのが、今評判になっているが」
「調べてみます」
「播磨は西国をだいぶ固めたらしいな?」
「おっしゃる通りでございます。僧都は信頼されています。明石に拠点を作っているそうです」
「宣耀殿女御の時代が来ることもあり得るな」
「はい、宣耀殿女御様、その父権大納言様は、着実に力を付けています」
「皇子はどうなっている?」
「ご懐妊中に、安芸という女房を使って、胎児の発育に影響を与える薬を何度かお飲みいただいています」
「気付かれていないだろうな?」
「さすがに僧都が怪しんだそうですが、斎宮女御を疑っているようです」
「うまくやったな」
「安芸は、子どもっぽく振る舞うのがうまいですから、まだ怪しまれていないようです」
「僧都はわからんぞ。気を付けろ」
「はい」
「式部卿宮のことは、どうなのだ?」
「三河が本腰を入れるつもりです」
「斎宮女御にも警戒が必要だな」
 三河の武士たちは、式部卿宮の即位を狙っていた。三河は摂津派ではあるが、派閥内にある大きな勢力の領袖であり、独立して摂津をしのぐ機会をうかがっている。式部卿宮が三河の切り札である。即位したら、娘の斎宮女御の皇子を後継者とするのではないかと、掾は分析した。きわめて異例だが、今の時代はどんなことが起きてもおかしくないと大納言は思った。
 弓姫は大納言の前に粥を置いた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日