按察

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29

 琵琶湖で採れた鮒のなれずしは、粥によく合った。大納言は、あっという間に食べおわってしまった。
「もう一杯いかがですか?」
「頼む」
 弓姫が近づけた盆に、大納言は椀を載せた。
 侍女が盆から椀を取ると、粥を盛って、また盆に置いた。
 食事が終わると、大納言は訊いた。
「あの侍女は、初めて見るな」
 弓姫は粥を挟んだ箸を止めた。
「この秋からうちに来るようになったのです」
「だれの娘だ」
「もう興味をお持ちになったのですか?」
「まあな」
 ほんとうはそういうわけではなかったが、そういうことにしておこうと大納言は思った。
「近在の寄人(よりゆうど)の娘だと聞いておりますが」
「なかなかの働き者ではないか」
「はい、今時の若い娘にしては、よく働いてくれ、助かっています」
「私の家で侍女が不足していて困っているのだ」
「お連れになりますか?」
「構わんのか?」
「娘を奉公させたいという寄人は多いようですので、一人ぐらい構いませんわ」
「では、そうさせてもらおうかな」
 琵琶湖の水は今日も黒々としていた。しかし、今日は雲間から差し込む光が昨日よりも多いせいか、波のきらめきが増えているようだった。大納言は、近江掾の話を聞いて、安芸を使うのは、もうよそうと思った。その代わりを見つけなければと思った矢先に、弓姫の侍女が目に止まった。よい顔立ちの娘だった。それが、今、自分の背中にしがみついている。さて、どうやって使おうか。大納言は馬上で思案した。
 馬は軽快に走った。遠巻きに近江掾の手下たちが付いてきていた。いつだってそうなのだ。昨日都から近江に行く間もそうだった。大納言は単独行動などできなかった。密かに行動しているつもりでも、近江掾の手下は必ず護衛をしているのだった。大納言もそれを承知で、単独行動をわざとするのだった。そうすることによって、掾との会見が主ではなく、弓姫と逢うことが主であるということが、なにも言わずとも掾に伝わり、ある意味、便利だったのだ。掾の手下たちが遠巻きに護衛をしていても、そのさらに外側を摂津守の手下たちが付いてきていることをも、大納言は承知していた。朝廷の高官が外出すれば、敵味方の武士たちが警戒し合うなどということは、言って見れば、現代の常識であった。
 何事もなく寄人の娘を邸内に入れると、初めは雑用などをさせた。そのうちに侍女として扱った。夜とぎをさせたのは、それからまもなくであった。娘はまだそういうことを知らなかった。大納言は丁寧に仕込んだ。考えがあるからだった。
「お前を私の養女にしようと思う」
「恐れ多いことでございます」
「お前は私の娘として、親王様にお仕えするのだ」
 親王とは、宣耀殿女御の子のことである。
「恐れ多いことでございます」
「親王様のお世話ができるように、私はお前を仕込んでいるのだ」
「恐れ多いことでございます」
「私の言うことをよく聞くのだよ」
「かしこまりました」
 清涼殿殿上の間で議事の合間に大納言は権大納言に話しかけた。
「恥ずかしいことだが、昔関係のあった女が死にましてな、その娘を引き取りました」
「いや、いや、大納言様も、なかなか、いや、やりますな」
「それで、その娘を親王様に仕えさせていただくことはできましょうか?」
「まだ親王様は幼いですぞ」
「ですから、その娘はまだなにもわかりませんから、親王様がお年頃になるまでのあいだ、あなたに、いろいろと教えていただけるとありがたいと思いまして」
 大納言は真顔で言った。
 権大納言も真顔になった。
「いや、しかし、よいのですか、私などで?」
「今夜、見にいらっしゃいませんか?」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日