按察

按察
prev

30

 鳥が鳴き、花の香りが満ちていた。大納言邸で朝食を振る舞われ、権大納言は、上機嫌であった。戸が静かに開いた。
「権大納言殿、私の家の食事はお口に合いますかの?」
 きちんとした服装で、大納言が権大納言に向き合った。
「いや、どれもこれも、おいしいものばかりで、うらやましい限りです」
「昨夜のお酒のつまみはいかがでしたか?」
 近江の寄人の娘のことだ。権大納言の顔がほてった。
「いや、ほんとうに初々しくて、まだなにも知らないと見えて、堅くなっておりましたが、だんだんと、こう、柔らかくなって参りましたわい」
 権大納言は高笑いした。
「それにしても、大納言様のお屋敷にお招きいただきまして、しかも、これほどまでに御馳走になりまして、ほんとうになんとお礼を申したらよいものやら」
「そんな、堅苦しいことなどはなしにしてくださいよ。今まで、あなたが私のぼろ屋に来てくださらなかったことを恨んでおります。これを機会に、足繁くお越しくださいよ」
「はっ、ありがたいお言葉、是非にそうさせていただきたく存じ上げます」
 それからほどなく、寄人の娘は権大納言の養女として、その邸宅に迎えられた。大納言が近江でもうけた娘であるとされ、近江の君と呼ばれるようになった。
 養女を迎えることについて、初め、北の方は賛成しなかった。北の方は、宣耀殿女御とその弟の頭弁(とうのべん)(のちの右大将)の生母である。しかし、権大納言は、大納言と親密な関係を構築することが、自分たちの家系を繁栄させるために、非常に有益である点を強調し、北の方を説得した。大納言は天皇と左大臣、皇后から非常に信用されており、二宮の義父である。一度は現皇太子の病気に対する不安から、二宮と皇太子を交代すべきであるという話も持ち上がったが、結局は、それは実現しなかった。しかし、現皇太子の次に帝位を継承すべきであるという見方は、揺らぐことがない。将来、病弱の現皇太子が帝位を継承しても、そう長くは続かず、すぐに、二宮に譲位するだろうという噂まで、まことしやかに世間に流布するほどだった。確かに、そうなったとすれば、大納言が関白に就任する可能性は、きわめて高い。大納言は学識が高く、人望も厚いので、世間でも、そう期待する人は多かった。その大納言の娘を、養女とすることは、きわめて意味が大きい。親王(宣耀殿女御の子)が成人したとき、この娘を入内させ、もし帝位に就けば、その皇子は皇太子になる可能性が十分にある。皇太子に頭弁が娘を入内させれば、頭弁は摂関に向けて、道筋を付けることができる。
「でも、大納言様は、近江派なんでしょ?」
「まあ、そこなんだよな」
「やっぱり、摂津派に付いていた方がいいんじゅない?」
 北の方の分析は的確だった。
「まあ、俺もそう思うんだが、摂津派にこのままいたとして、もし大納言が第一勢力になったら、俺たちも近江派に支配されてしまうぞ」
「ほんとうに、難しいところね」
「そうなんだ。今は近江派は、あまり大きくない。しかし、僧都は近江派の力を高く評価しているぞ」
「お兄様は、判断が確かですものね」
「そうなんだ。兄貴はかなり西国をまとめられたみたいだ。その勢力と近江派が合流すれば、関白や左大臣の摂津派を凌駕するのは確実だ」
「摂津が関白様や左大臣様より、頭中将様に期待をかけているってほんとうなの?」
「噂だが、あり得ないことではない。頭中将は、若いが行動力があるからな」
「そこが心配じゃない?」
「なに、早めに芽を摘んでおけば、手に余ることにはならないだろう」
「わかったわ、あなたの好きにして」
 近江の君は結局迎えられ、西の対を与えられた。権大納言は、何度か夜に忍んで行った。ところが、ある晩、息子の頭弁が部屋にいることがわかると、苦笑して、引き返した。その後、権大納言は、近江の君の部屋に入るのをやめた。
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日