按察

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31

 外では風の音がしていたが、室内は静かであった。僧都は話を終え、温かい飲み物をゆっくり飲んでいた。右大将は、無言で考えをまとめようとしていた。右大将には言いたいことがたくさんあった。しかし、なにからどう言えばよいかわからず、うつむいて、意味もなく自分の膝のあたりをじっと見つめていた。ただ、右大将にはっきりとわかったことは、今までの自分が、なにもわかっていなかったということである。右大将は、今日、いや、もう昨日のことであるが、自分が思いがけなく右大将の位を手にすることができて、有頂天になっていたことが、実に愚かなことだったと思った。政界から排除された僧都のことを、俗界の塵にまみれず、悠々自適に暮らしている、脳天気者だと、頭のどこかにそんな見方があったことが、実に幼稚であったと思った。昨夕、僧都から、「私は権中納言どまりでしたから、あなたが右大将まで兼任するれっきとした中納言におなりになって、うらやましい限りです」というようなことを言われたときに、それを言葉どおりに受け取って、得意になっていたことが、実に恥ずかしいと思った。打ちのめされたことは数々あるが、その中でも、近江の君のことは、いちばんこたえた。
「年寄りが長話をして、申し訳ありませんでしたな。もう外が白んできましたよ」
 戸と戸の隙間からは、たしかに白い光が差し込んでいた。
「もう寝る用意もできておりますから、どうぞあちらのお部屋へ」
 右大将は、素直に従った。かしこまって、挨拶をする。立ち上がりかけて、また座り直した。
「伯父上、寝る前に一つだけうかがってもよろしいですか」
「なんでも訊いてください」
「なぜ、今までこのことを教えてくださらなかったのですか」
 僧都は、厳しい目で右大将を見た。
「このことを受け入れるには、心の用意が必要です。あなたの父上からは、いつかあなたに話してほしいと言われておりました。私も好機が訪れるのを待っていました。あなたが本気で摂関を目指すかどうか、わからなかったのです。摂関を目指すとなると、死を覚悟しなければなりません。あなたが、ほどほどの位を得て、安定した人生を送ろうとお考えならば、なにも知らない方がいいと思いました。実際にそのような暮らしを望む人が、今は多いですからね。あなたもそうであれば、私はそれで構わないと思いました。私は私で当初の予定どおりに行動し、私の子の代か孫の代、あるいは、もっとずっと後世のだれかが、摂関を目指す、つまり、天下を取ろうと思ったときに、私が残した遺産を使ってもらえればと思っていたのです。しかし、昨日、あなたは、自らの意志で、右大将の位を望んだ。しかも、あなたが右大将の位を奪った相手は、現実社会の中で、最も強力な勢力と手を組んでいる男です。今こそ、あなたにこの話をするべきだと思いました」
「最も強力な勢力と手を組んでいる男?」
 僧都の目の光が強くなった。
「そうです。あなたは、あの男の真の姿がまだ見えていないでしょうが、今の世の中で、あの男に刃向かえる者はおりません」
「しかし、関白は、あの男を徹底的に罰しましたぞ」
 関白は高齢で重い病の床に伏していた。そして、昨日は臨終になるかもしれないと、皆が騒いでいた。右大将の従兄は、それを聞き、宮中に向かった。関白が死んだら、すぐに帝に取り入ろうと思ったのだ。現在の帝はまだ年が若いので、関白がいなければ、この男の言いなりになってもおかしくはない。この男の背後には、強大な武士集団が控えているのだ。だれもこの存在に立ち向かえる者はない。この男が宮中に向かっていると聞いた関白は、臨終の床から起きあがった。束帯に身を包み、牛車に乗ると、この男と帝が話をしているところに、いきなり出てきた。この男がどれほど力があっても、やはり人事を取り仕切ることはできない。関白が人事権を発動すれば、それはやはり従わなければならないのである。関白は最後の気力を振り絞って、この男から右大将の位を取り上げた。
 この男の後任者には覚悟が必要である。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日