按察

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32

 もう風はやんでいた。室内は何事もないように静まり返っていた。右大将が片目を開けると、戸の隙間からまぶしい光が差し込んでいた。家の中は静まり返っていたが、耳を澄ますと、だれかが動いたり、言葉を交わしたりする、かすかな音の響きが感じられた。右大将はすばやく起きあがり、身支度を整えた。部屋を出ると、あちこちで家の者が立ち働いているのが、目に入った。日は高いところにあった。どうやら昼近くまで寝ていたらしい。僧都の部屋に挨拶に入ると、僧都は身支度をすっかり整え、文机に向かって、なにかを書き付けていた。
「おはようございます」
「お目覚めですか? あなたは忙しい方なのだから、こんなときぐらいもっとよく寝ておればよいのに」
「いえ、そろそろ家に戻りませんと」
「食事の用意ができておりますので、すぐにお部屋に運ばせましょう」
「なにからなにまでお気遣いいただき、ありがとうございます」
 部屋に戻ると、すっかり食事の用意ができていた。食事を済ませ、帰り際に僧都の部屋に挨拶に行った。すると、僧都は右大将を中に招き、戸を閉めさせた。右大将が僧都の文机の前に座ると、僧都は小声で言った。右大将は顔を近づけた。
「あの男と闘う覚悟はできましたか?」
 あの男とは、昨日まで右大将で、現在の右大将の従兄である男である。現在の右大将は、僧都の質問に答えるよりも、僧都に質問することの方を優先した。
「そのことをお答えする前に、教えていただきたいことがあります。私には、今まで話を持ち掛けてくる有力な武士がいませんでした。それはなぜでしょうか?」
「ハハハハハ」
 僧都の笑いが止まらなかった。
「伯父上、ひどいではございませんか、私の人望がないことをお笑いになるとは」
「いや、これは失礼しました。しかし、あなたに話を持ち掛ける武士など、いたら困りますからね」
「なぜですか? 困ることはないでしょう」
「よろしいですか。あなたは、お気づきではなかったと思いますが、これまで私がお守りして参りました。そして、これからもそのようにして参るつもりでございます」
「それは、いったいどういうことでしょうか?」
「つまり、微力ではございますが、私も少しばかり、勢力を有しております」
「ええ、もちろんそれはわかりました。昨晩いろいろとうかがいましたから。ですが……」
「今、日本の武士は、二つの勢力に分かれています。以前は、三つでした。昨晩お話しした摂津派と近江派、それから私ども西側の勢力です」
「まさか? 伯父上の勢力は、日本の西側全部に及んでいるのですか?」
「まあ、それでも東国の勢力に比べれば、貧弱なものです」
「しかし、それは大変な勢力ですよ」
「まあ、そうですね。東国が摂津派と近江派に分かれているときは、三つ巴になるぐらいの勢力はありました。しかし、近江派は滅びてしまいました。そして、その領域はほとんど摂津派に吸収されてしまいました。ですから、今や摂津派は、我々播磨派の倍もある大勢力になってしまいました」
「播磨派! そうか、播磨派が西側をすべて掌握していたのですか? そして、伯父上はその播磨派の棟梁なのですか?」
「たいしたものではありませんが、まあ、部下たちが私を祭り上げているようですよ」
 右大将は考え込んでいた。なにかが気になる。しかし、それがなにかわからない。ただ播磨派という言葉が引っかかるということだけは、なんとなくわかる。しかし、なぜ播磨派が気になるのかは、わからない。
「どうかしましたか? あの男のことを考えているのですか」
 あの男、従兄、そうだ、従兄は、亡き帝から、一時、罰として播磨守に任じられ、流されるところだったと、昨晩僧都が言っていたではないか。右大将は、それを僧都に言ってみた。
「ああ、それは私がお願いしたのです。摂津に取られる前、私がもっとも有望視していたのはあの男でしたから」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日