按察

33
静かな室内からは、外の物音はなにも聞こえない。風もなく、穏やかな日であった。僧都もなにごともないように、穏やかな顔をしている。しかし、僧都の口から出た言葉は、右大将にとって、決して穏やかなものではなかった。
「ということは、やはり伯父上は私に期待なさっていなかったのですね」
僧都は柔和な表情で、楽しそうに笑った。
「あなたは、あの男がおきらいなのですね」
「昔からあの男は、私に含むところがあるようで、たびたびいらいらさせられるのです」
「それは、あの男があなたの力を恐れているからでしょう」
「私があの男から恐れられている?」
「それはそうですよ。あなたは播磨派の棟梁が、もっとも大切にしている人ですからね」
僧都は、右大将がこれまで見たことのないような顔をしていた。僧都はほんとうにこのような顔をしていたのだろうかと思ったが、小さいころから見慣れてきた僧都の顔であるのは、間違いのないことであった。右大将の中で構築されていた人間関係の図式というものは、すっかりひっくり返ってしまった。亡き帝と姉の宣耀殿女御が、右大将にとっては、限りなく神聖な存在であった。左大臣まで昇進した亡き父や関白の伯父は、人臣でもっとも力を持つ者であるはずであった。関白から昨日右大将を取り上げられた従兄などは、ものの数ではないし、とうに政界を引退し、僧籍に入った伯父は、最高位がたかだか権中納言であったところからも、右大将の目からは、やはり心からの崇敬の念を抱くには至らない存在であった。
しかし、どうやら実質的な価値というものは、見かけの価値とは異なっているらしかった。実質的にこの日本を動かしている各地の有力者からすると、亡き帝と姉の宣耀殿女御は、祭の飾り付けのようなものであり、父左大臣や伯父の関白に至っては、自分たちが経済力や武力を提供して、その役目に就かせてやっているぐらいにしか思っていないだろう。それに、もう、左大臣だった父や伯父の関白の時代は終わった。高齢の関白は病に倒れ、昨日は最後の力を振り絞るようにして、除目を行い、従兄から右大将の位を取り上げた。しかし、各地の有力者は、もうこの関白を重要視していないようだ。各地の有力者、とりわけ、その中でもっとも力を持っているという摂津派が重要視しているのは、あの従兄であるらしかった。関白から右大将を取り上げられたから、あの従兄の政治生命は終わるかもしれないという昨日の自分の分析は、実に浅はかであった。じき関白が他界すれば、あの従兄は、すぐにまた昇進するであろう。しかも、従兄は、摂津派だけでなく、播磨派の棟梁である我が伯父からも目をかけられていたのだ。伯父は私など眼中にはない。今日はたまたま話の成り行きから私に事実を知らせざるを得なかったのだろうが、もしこういう機会がなかったら、私にはなにも知らせずに、他の者に話を持ち掛け、あの従兄の対抗馬に立たせ、とことん支援したのではないだろうか。今日になるまでなにも言ってくれなかったのに、なぜ急にこんな裏事情を話して、私があの従兄に恐れられているなどと、ありもしないことを言い出すのだろうか?
「摂津派はあなたを狙っているのです」
「私は殺されるのですか?」
「そうではなく、あなたの従兄よりもあなたの方が、支援する相手として適切なのではないかと分析しているのです」
「私など……」
「あなたは、ご自分の力がわかっていない。昨日あなたが右大将を望んだとき、だれも反対しなかったのはなぜだかわかりますか?」
右大将は、あまりそのことを深く考えていなかった。
「あなたには播磨派の私がついている。しかも、摂津派もあなたの力をほしがっている。そういうあなたに逆らうことができる人などいませんよ。あの従兄だって、あなたが恐いから、下手なことは言えなかったのです」
右大将の頭は高速で回転していた。もっと気になることが回転をさらに速めた。
「ということは、やはり伯父上は私に期待なさっていなかったのですね」
僧都は柔和な表情で、楽しそうに笑った。
「あなたは、あの男がおきらいなのですね」
「昔からあの男は、私に含むところがあるようで、たびたびいらいらさせられるのです」
「それは、あの男があなたの力を恐れているからでしょう」
「私があの男から恐れられている?」
「それはそうですよ。あなたは播磨派の棟梁が、もっとも大切にしている人ですからね」
僧都は、右大将がこれまで見たことのないような顔をしていた。僧都はほんとうにこのような顔をしていたのだろうかと思ったが、小さいころから見慣れてきた僧都の顔であるのは、間違いのないことであった。右大将の中で構築されていた人間関係の図式というものは、すっかりひっくり返ってしまった。亡き帝と姉の宣耀殿女御が、右大将にとっては、限りなく神聖な存在であった。左大臣まで昇進した亡き父や関白の伯父は、人臣でもっとも力を持つ者であるはずであった。関白から昨日右大将を取り上げられた従兄などは、ものの数ではないし、とうに政界を引退し、僧籍に入った伯父は、最高位がたかだか権中納言であったところからも、右大将の目からは、やはり心からの崇敬の念を抱くには至らない存在であった。
しかし、どうやら実質的な価値というものは、見かけの価値とは異なっているらしかった。実質的にこの日本を動かしている各地の有力者からすると、亡き帝と姉の宣耀殿女御は、祭の飾り付けのようなものであり、父左大臣や伯父の関白に至っては、自分たちが経済力や武力を提供して、その役目に就かせてやっているぐらいにしか思っていないだろう。それに、もう、左大臣だった父や伯父の関白の時代は終わった。高齢の関白は病に倒れ、昨日は最後の力を振り絞るようにして、除目を行い、従兄から右大将の位を取り上げた。しかし、各地の有力者は、もうこの関白を重要視していないようだ。各地の有力者、とりわけ、その中でもっとも力を持っているという摂津派が重要視しているのは、あの従兄であるらしかった。関白から右大将を取り上げられたから、あの従兄の政治生命は終わるかもしれないという昨日の自分の分析は、実に浅はかであった。じき関白が他界すれば、あの従兄は、すぐにまた昇進するであろう。しかも、従兄は、摂津派だけでなく、播磨派の棟梁である我が伯父からも目をかけられていたのだ。伯父は私など眼中にはない。今日はたまたま話の成り行きから私に事実を知らせざるを得なかったのだろうが、もしこういう機会がなかったら、私にはなにも知らせずに、他の者に話を持ち掛け、あの従兄の対抗馬に立たせ、とことん支援したのではないだろうか。今日になるまでなにも言ってくれなかったのに、なぜ急にこんな裏事情を話して、私があの従兄に恐れられているなどと、ありもしないことを言い出すのだろうか?
「摂津派はあなたを狙っているのです」
「私は殺されるのですか?」
「そうではなく、あなたの従兄よりもあなたの方が、支援する相手として適切なのではないかと分析しているのです」
「私など……」
「あなたは、ご自分の力がわかっていない。昨日あなたが右大将を望んだとき、だれも反対しなかったのはなぜだかわかりますか?」
右大将は、あまりそのことを深く考えていなかった。
「あなたには播磨派の私がついている。しかも、摂津派もあなたの力をほしがっている。そういうあなたに逆らうことができる人などいませんよ。あの従兄だって、あなたが恐いから、下手なことは言えなかったのです」
右大将の頭は高速で回転していた。もっと気になることが回転をさらに速めた。