按察

34
室内は静寂であり、外もまたそうであったが、それでも時折物音が断続的に聞こえてきた。それは、風や鳥の音だったり、従者たちがあちこちで作業している音だったり、様々であった。庭を掃く音、廊下を拭く音、水を流す音、道具を出し入れする音、金物がぶつかる音、炭火のはねる音、そういう物音は、いったん気になり出すと、よく聞こえるものだ。右大将の頭の中は、現在から過去、過去から未来、未来から現在へと、ぐるぐる回転していた。室外から入ってくる小さな物音は、頭の回転をいっそう速めた。
「伯父上」
右大将は、いろいろなことを一度に訊いてみたかったが、それは混乱をさらに深めるだけだと思い、一点に絞った。
「近江の君を北の方にしようと思いますが、構わないでしょうか?」
僧都の顔から笑みが消えた。右大将が部屋に入ってくるまで書き付けていた紙を手に取って、幾度もひっくり返している。その手元を見ていると、僧都の声が聞こえた。
「あなたがそれでよろしいのでしたら、私は構いませんよ」
僧都の言葉は、右大将の予想に反して、簡単なものであった。僧都の昨夜の話から考えて、当然反対されると思っていたのだ。近江の君は、故大納言の娘ではなかったのだ。近江掾の娘ですらない。近江の寄人の娘である。寄人の娘を北の方にした公卿など、聞いたこともない。右大将に昇進したばかりの男が、寄人の娘を北の方に据えたなどと世間の人が聞いたら、当然大騒ぎになるだろう。笑いものになるのは間違いないことである。親戚に相談すれば、賛成する者がいるはずはない。昨夜の僧都の話を聞いてから、右大将はこのことでずっと悩んでいたのである。右大将に昇任するという幸運を手に入れた後、僧都の家に来るまで、馬上でずっと近江の君のことを考えていた。右大将になり、父や祖父の墓に詣でてこれを報告し、近江の君を正妻にする。これほど喜ばしいことがあるだろうか。手綱を握りながら、そう思っていたのである。しかし、昨夜僧都の話を聞くうちに、そして、今また僧都の話を聞くうちに、喜ばしいはずのことが、だんだん色褪せていくのを感じざるを得なかった。
右大将は近江の君が家に来た日のことを覚えている。まだ父が権大納言だったころである。故大納言の娘を養女として迎えることになったとだけ知らされた。青年になりたてだった右大将は気持ちが乱れるのをどうにもできなかった。右大将は女性というものをあまり知らなかった。母親と姉と侍女たち。それがそのころの右大将の接しうる女性であった。姉が女御として後宮に行ってしまったから、心に穴が開いているような気分になっていた。そこへ突如として、自分と同じぐらいの年齢の女性が現れたわけである。気持ちの乱れない方がおかしいぐらいである。あのころはなにも知らなかった。大納言の娘であるということしか知らされなかったから、手の届かないような高貴で聖なる存在と思うだけだった。右大将は大納言を尊敬していた。その大納言の娘なのだから、近江生まれであるにしても、きっと近江守の娘がその母であるに違いないと決めつけていた。近江守は教養があり、財力もある。そこに育ったのだとすれば、きっと上品で和歌のたしなみなどもあるだろうと思った。
ある日、庭を散策していると、つい近江の君の部屋近くまで行ってみたくなった。そっと近づくと、御簾が上げてあった。迷い込んできた小猫を見るため、簀子(すのこ)の端の方まで出てきていたのだった。右大将に気付くと恥ずかしそうに奥に入って行った。しかし、一瞬目が合い、それは、自分を誘っているように思えた。右大将は、その夜、部屋に入った。近江の君は、右大将に逆らわなかった。それから密かに部屋に通うようになった。
右大将の姉が産んだ親王が大きくなると、近江の君は更衣として仕えることになった。右大将は悲しかったが、あきらめざるを得なかった。しかし、二人は相性が悪く、子もできず、里に下がることになった。それ以来、右大将が近江の君を妻として、今日まで暮らしてきたのであった。
その妻の過去を知ってしまったのである。
「伯父上」
右大将は、いろいろなことを一度に訊いてみたかったが、それは混乱をさらに深めるだけだと思い、一点に絞った。
「近江の君を北の方にしようと思いますが、構わないでしょうか?」
僧都の顔から笑みが消えた。右大将が部屋に入ってくるまで書き付けていた紙を手に取って、幾度もひっくり返している。その手元を見ていると、僧都の声が聞こえた。
「あなたがそれでよろしいのでしたら、私は構いませんよ」
僧都の言葉は、右大将の予想に反して、簡単なものであった。僧都の昨夜の話から考えて、当然反対されると思っていたのだ。近江の君は、故大納言の娘ではなかったのだ。近江掾の娘ですらない。近江の寄人の娘である。寄人の娘を北の方にした公卿など、聞いたこともない。右大将に昇進したばかりの男が、寄人の娘を北の方に据えたなどと世間の人が聞いたら、当然大騒ぎになるだろう。笑いものになるのは間違いないことである。親戚に相談すれば、賛成する者がいるはずはない。昨夜の僧都の話を聞いてから、右大将はこのことでずっと悩んでいたのである。右大将に昇任するという幸運を手に入れた後、僧都の家に来るまで、馬上でずっと近江の君のことを考えていた。右大将になり、父や祖父の墓に詣でてこれを報告し、近江の君を正妻にする。これほど喜ばしいことがあるだろうか。手綱を握りながら、そう思っていたのである。しかし、昨夜僧都の話を聞くうちに、そして、今また僧都の話を聞くうちに、喜ばしいはずのことが、だんだん色褪せていくのを感じざるを得なかった。
右大将は近江の君が家に来た日のことを覚えている。まだ父が権大納言だったころである。故大納言の娘を養女として迎えることになったとだけ知らされた。青年になりたてだった右大将は気持ちが乱れるのをどうにもできなかった。右大将は女性というものをあまり知らなかった。母親と姉と侍女たち。それがそのころの右大将の接しうる女性であった。姉が女御として後宮に行ってしまったから、心に穴が開いているような気分になっていた。そこへ突如として、自分と同じぐらいの年齢の女性が現れたわけである。気持ちの乱れない方がおかしいぐらいである。あのころはなにも知らなかった。大納言の娘であるということしか知らされなかったから、手の届かないような高貴で聖なる存在と思うだけだった。右大将は大納言を尊敬していた。その大納言の娘なのだから、近江生まれであるにしても、きっと近江守の娘がその母であるに違いないと決めつけていた。近江守は教養があり、財力もある。そこに育ったのだとすれば、きっと上品で和歌のたしなみなどもあるだろうと思った。
ある日、庭を散策していると、つい近江の君の部屋近くまで行ってみたくなった。そっと近づくと、御簾が上げてあった。迷い込んできた小猫を見るため、簀子(すのこ)の端の方まで出てきていたのだった。右大将に気付くと恥ずかしそうに奥に入って行った。しかし、一瞬目が合い、それは、自分を誘っているように思えた。右大将は、その夜、部屋に入った。近江の君は、右大将に逆らわなかった。それから密かに部屋に通うようになった。
右大将の姉が産んだ親王が大きくなると、近江の君は更衣として仕えることになった。右大将は悲しかったが、あきらめざるを得なかった。しかし、二人は相性が悪く、子もできず、里に下がることになった。それ以来、右大将が近江の君を妻として、今日まで暮らしてきたのであった。
その妻の過去を知ってしまったのである。