按察

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35

 室内や外の物音も右大将は聞こえなくなっていた。気付いたら、抑えがたい胸の内を夢中で僧都に訴えていた。近江の君への思い、親王に入内したときの悔しさ、そして、昨夜僧都から聞かされた近江の君の過去に対する衝撃と動揺、それらは、順序も途中から乱れ、時折、同じところを行ったり来たりし、ときには淀み、ときにはほとばしった。
 僧都は若い甥の話を、ただうなずきながら聞いていた。右大将が話を終えるというよりは、話疲れて、ぐったりしたときは、もう昼近くになっていた。
 戸の外から声がした。
「失礼いたします」
「開けてよいぞ」
「失礼いたします」
 侍女が頭を下げた。
「そろそろお昼の支度をいたします」
「ああ、そうしてくれ」
「失礼いたしました」
 右大将は驚いて侍女を呼び止めた。
「いや、私はいい。もう帰らなくては」
 侍女は上げた腰をまた下ろし、困ったような目で僧都を見た。
「いや、よろしいではありませんか。それに、もしあなたにお時間がございましたら、少しご案内したいところがあるので、腹ごしらえをなさっておいた方がよいと思います」
「え? どこへお連れくださるのですか?」
「小さなものですが、私が所領している地域を一度お目にかけたいと思っております」
「播磨ですか?」
「はい。しかし、お忙しければ、またの機会でもよろしいですよ」
 右大将は喜んだ。自分の知らない国に行ってみたかった。それに、播磨は自分と深く関わっているらしいのである。それがほんとうなのかどうかもこの目で確かめてみたかった。
「ぜひお供したいです。しかし、これから行ったら、今日中には着かないのではないですか?」
「なに、馬を飛ばせば、日が暮れる前には須磨に着きますよ」
「須磨?」
「ええ、今日は須磨に泊まり、明日は明石に行きます。明石には、私が拠点としているところがあります。狭苦しい海辺の小屋なので、あなたをお招きするのは気が引けますが」
「今日も泊まって、明日はもっと遠くに行くのですか?」
「政務に支障があるようでしたら、今回は取りやめにしましょう」
「いや、そのぐらいでしたら、差し支えないと思いますが、宮中や家に知らせなければ」
「それでしたら、私の家の従者にやらせますよ」
「しかし、そんな遠出の支度をしてこなかったなあ」
「ご心配無用です。こちらですべて手配します。ご覧ください」
 僧都は外に面している御簾を上げた。外にはたくさんの馬と武士が準備を終えて、整列していた。
「なんと! 伯父上は、もうすっかり私をお連れになるつもりでしたか」
「申し訳ございません。実は、あなたは、しばらく京から離れた方がよいと思います。あの男は、あなたが思っている以上に、あなたを恨んでおります。あの男の後ろにいる摂津の武士たちが、いつあなたの命を狙うかわかりません。ここは、一度、播磨の武士たちと会合して、善後策を練らねばなりません。私の話だけではなく、播磨の者たちから直接、日本の実状を聞くと、あなたがこれからどのように行動なさっていくべきか、はっきりご理解なさるのではないかと思っております」
 右大将は覚悟を決めた。
「わかりました。私に伯父上が期待してくださるような器量があるとは思えませんが、命をかけて戦います」
「あの、申し訳ございません。それではお昼のお支度をしてもよろしいでしょうか」
 侍女がこわごわ割り込んだ。
「おう、待たせて悪かったな。そうしてくれ」
 半時後、右大将と僧都は大勢の武士に守られながら、西に馬を走らせた。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日