按察

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 僧都の馬と右大将の馬はぴたりと並んで、ゆっくり進んでいた。風が穏やかになり、陽ざしが馬の背を温めていた。
「亡くなった大納言様のことをどう思いますか?」
 僧都が右大将を見た。
「大変立派な方でした。亡くなったときは、たしか左大臣でしたね?」
 右大将も僧都を見た。僧都は前を向いた。
「そうでした。左大臣におなりでした。しかし、左大臣になってから、太宰府権帥(だざいふごんのそち)に左遷されるまでがあまりにも短かったですので、どうも私には大納言という印象が強いのです」
「私もそうです。みんなそうじゃないでしょうか。それから、左大臣におなりになる前、これも短期間でしたが、右大臣におなりになっていましたね」
「ああ、そうでしたな。大臣の期間があまりにも短く、大納言の期間があまりにも長かったものですから、つい、そのことを忘れてしまいますが、ほんとうにそうでしたよ。どうも、私は、ついつい、大納言様と言ってしまいます」
「でも、それでいいのではないでしょうか。私も大納言様という方が、言いやすいです」
「それでは、やはり、大納言様とお呼びしましょう。大納言様は、按察(あぜち)もかねていらっしゃっいましたかね?」
「按察ですか……、どうでしょう? あ、そうでした。亡くなった皇后の中宮大夫(だいぶ)におなりになったとき、按察にも任命されていらっしゃったはずです」
「すばらしい記憶力ですな」
「いや、そんなことはございません。大納言様は、ほんとうに優れている方で、私は常にお手本にしておりましたので、自然と細かいことまで記憶に残っていたのでしょう。それで、大納言様のことが、これからうかがう明石の別邸となにか関係があるのでしょうか?」
「ええ、そうなんです。大納言様のことは、いろいろと複雑に関係しておりましてな。これをお話ししないでは、いろいろなことが、おわかりいただけないと思っているのです」
「それは、どういうことでしょうか?」
「そうですな、その前に、少しお伺いしたいのですが、大納言様について、あなたは、どのようにお考えですか?」
 右大将をのぞき込む僧都の目が鋭くなった。
 「先ほども申しましたが、大変立派な方で、私は常日頃お手本にしておりました」
「なぜ左遷されたのか、おわかりになりますか?」
「二宮を皇太子に立てようとしなさったからではございませんか?」
「公式にはそうですが、世間はそんなことを信じていないでしょう」
「あのときの右大臣、つまり、私の父がそのような罪状をこしらえて、中央政界から追放したと世間は言っているようです」
「あなたの父上、つまり、私の弟がほんとうにそんなことをしたでしょうか?」
「私の父も大納言様のことは、非常に尊敬していましたから、私には、このことがどうしても信じられないのです」
「あなたが毛嫌いなさる、あなたの従兄の、あの男がしたことなのです」
「どういうことですか?」
 僧都には右大将が、どんどん、どんどん、こちらの方へ、引き寄せられているのがわかった。それが、うれしくもあり、また、つらくもあった。右大将は、本来は、文芸向きである。几帳面で潔癖な性格は、現実の人間の動きを勘案するには、強すぎるかもしれない。右大将の姉の宣耀殿女御もそのことを死ぬまで気にしていた。弟は、政治には向かない。弟の好きな、歌や書、詩文の世界で活躍するのが、弟にとって幸せな生き方なのだ。政界の渦の中心で苦悩する弟を見たくない。宣耀殿女御は、僧都にいつもそう言っていた。僧都もそう思っていた。地方には有能な者がたくさんいる。そういう人材を長い年月育て、いつかこの国を動かすための、強固な勢力を築きあげればよい。そう思っていた。しかし、予想に反して、政界に登場した右大将は、頭角を現した。そして、自らの意志で、従兄が持っていた右大将の位を自分のものにしてしまった。僧都は驚いたのだ。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日