按察

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 ひたひたと水の打つ音が聞こえていた。それは京のことしか知らない右大将には、珍しい光景だった。神社の建物は、僧都が言うように、水に浮かんでいるように見えた。
「どうですか、こういう景色はご覧になったことがございませんか?」
 年配の武士が笑った。
「初めてです。すばらしいですね」
 右大将は震えていた。
「お寒いでしょう。中に入って、火にお当たりください」
 右大将にこの光景を見せたくて、僧都が年配の武士に命じたのだが、早く話を進めなければならないので、僧都がまた年配の武士に命じたのだった。
 右大将が中に入ろうとすると、海面を漂う風に乗って、琴の音が聞こえてきた。
「こちらでお預かりしております、ある皇族の姫君でございます」
 年配の武士は言った。
「なぜ皇族の姫君がこちらへ」
「父親の大臣がお亡くなりになりまして、他に身寄りがございませんので、私がお預かりいたしました」
 僧都はそれだけ言うと、作戦会議を再開した。
「摂津の勢力については、今後相当弱めることができると思いますが、どうでしょうか、惟常?」
 僧都は年配の武士に質問した。年配の武士は播磨守藤原惟常(ふじわらのこれつね)と言った。
「そう思います。我々は関白と大納言の説得に成功しました。つまり、摂関家で重要な三人の人物、関白と大納言と右大将、失礼しました、前(さき)の右大将の三人の内、二人が播磨派に変わってくださったということです。これは、非常に大きい成果です」
 惟常の説明を聞きながら、右大将は、ある出来事が意味することに気付いた。
 一昨日、関白が除目をする直前、何気なく、大納言が自分に話しかけてきた。あなたは右大将になるつもりはありませんか? そう訊いてきたのである。右大将は驚いた。いつも気楽な話を交わしあう仲の大納言が、急にそういう話題を自分に持ちかけることにも驚いたし、右大将は現在従兄が就任しているのだから、自分が右大将になることは、数年、下手すると十数年はあるまいと思っていたからでもあった。でも、もし機会があれば、右大将にはあなたがもっともふさわしいと思いますよ。大納言はそう続けた。そして、さっと自分から離れていった。まるで二人が一緒にいるのを、だれかに見られまいとするかのように。右大将の胸は高まった。重態の関白が、従兄の振る舞いに激怒して臨時の除目を行うために参内し、公卿を招集したそのときに、大納言がこういうことを自分に言うのは、神のお告げのように思えた。関白がやってきた。相当顔色が悪い。よく参内できたものである。それまでなにも知らずにいた従兄は、見るからに驚いていた。従兄はもうまもなく亡くなるであろう関白の後任として、帝に関白に就かせてもらえるよう頼みこんでいたのだ。それにしても、右大将から関白に一気に昇進するなど法外なことを企てたものだ。亡き帝の御代であればあり得ないことだが、今はなにが起こってもおかしくない。世の中が乱れているのである。これも従兄を操る摂津派の計略であることが、僧都の話を聞いて、やっとわかってきた。関白はそういうことに憤激し、重態の病床から起きあがってきたのだ。自分はまだそういうことはわからなかったが、従兄のやり方はきたないと思っていた。さっき耳打ちしてくれた大納言は関白の右腕である。自分も自分を買ってくれた大納言とともに、関白の力になろうと思った。関白は従兄から右大将の位を取りあげた。だれか右大将がほしいものはないかと言って、私の目を見た。鋭い目だった。お前には宮中を背負う根性がないのかと叱るような目だった。私は手を上げた。体中が震えた。
「これで摂津は落とせるな」
 僧都が惟常に言った。
 右大将は、僧都の思っていることが、今やっとわかったと思った。私が自分の意志で右大将に手を上げたことをうれしく思ったと僧都は言ったが、そうではなかった。僧都が関白と大納言を抱き込んで、私が自発的に右大将になるよう仕組んだのだ。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日