按察

41
しばらくの沈黙の間、水の打つ音が部屋に鳴り響いた。濃厚な潮の匂いが息苦しいほどだった。時折、かすかだが琴の音色も混ざった。濃厚な潮の匂いは、生臭さを漂わせていたが、それに包まれている内に、なぜか安らぎをも感じていくように思われた。
右大将は、琴の音色ばかりに耳が向かっていくようであった。流れるように自然な演奏であった。技巧は非常に優れているが、それに溺れていなかった。むしろ、技巧を前面に出さないように、注意深く演奏しているようだった。だから、聴いていても、演奏者の余計な感情を感じることがなかった。こういう演奏をする人を、右大将は自分の姉以外には知らなかった。右大将は、久しぶりに琴の音色を聴いて、心地よい気分になることができたと思った。
右大将の心を現在一番占めている近江も琴の演奏が上手であった。寄人の娘ではあるが、近江国あたりだと、寄人でも富裕な者が多い。貴族顔負けの邸宅、調度、教養を持っているものもいる。近江の実家がそうだった。近江は小さな頃から教育熱心な両親にさまざまな教養と技芸を仕込まれ、上流の娘にも負けないような洗練された女性になっていた。しかし、近江はそういう育ちの女によくあることだが、負けん気が強かった。そして、それは彼女の立ち居振る舞いの端々に、非常に微妙に現れていた。
右大将は、近江に夢中になっていたが、近江のそういうところだけは、普段からなんとなくだが、気になっていた。特に近江が琴を演奏するときは、耳をふさいで、他の部屋に行きたくなることがしばしばであった。女房たちはだれもそんなことは感じないようであった。近江の演奏の巧みさに舌を巻くばかりであった。姉といっしょに小さな頃から琴を練習してきた右大将は、それがとても気になるのだった。
小さな頃は、姉も右大将も技巧を競い合ったものだが、あるときから、それをむなしく思うようになり、二人とも技巧を抑えて、澄んだ心を琴に乗せるようになった。その頃には、貴族社会で、右大将とその姉に、琴でかなうような者は一人もいなかったが、二人はすでに琴の演奏の巧みさで、だれかに勝とうとは思っていなかった。それよりは、自然に心が現れるような演奏や自然をそのまま現したような演奏を好むようになっていた。
姉が宣耀殿女御となって、先帝に入内したあとは、右大将はだれかの琴の演奏を聴いていたいと思うことがなくなった。そして、姉が亡くなってからは、もう琴の演奏は二度と聴きたくないと思っていた。
近江は当然右大将と姉が琴の名人であることを知っている。自分も近江国では、二人といない名手であると評判を勝ち取っていたから、右大将にはどうしても聴いてほしかった。右大将が姉のことをとても好きだったということも、人々から聞いて知っていたので、その対抗心から、余計に右大将に自分の琴を聴かせようとした。そういう気持ちがあるから、余計に近江の琴は技巧的になった。だれもが上手に弾けないような難しい曲を、近江は間違えずに弾きこなした。だれもが近江の琴を絶賛したが、右大将には、それがいやであった。ちょうどそういうときに、今宵の琴の音色であった。部屋の話し合いは、右大将の耳にあまり入らなくなった。
「右大将様が眠そうになっていらっしゃいますな」
惟常が言うと、僧都は笑った。
「馴れない長旅でお疲れになったのでしょう。惟常、寝室にご案内してください」
「かしこまりました」
惟常が部屋の外に行くと、しばらくして若い女房が入ってきた。女房に起こされた右大将は、素直に付いていった。
廊は足に冷たかった。すっかり目の覚めた右大将は、女房に訊いた。
「あの琴はだれが弾いているのですか」
「中の君様でございます」
「中の君?」
「失礼いたしました。つい、いつもの癖で。お亡くなりなった兵部卿宮様の二女でいらっしゃるのです」
「そうですか。実は、私は、あの方に伺いたいことがあるのです」
女房は困ったように右大将を見た。
右大将は、琴の音色ばかりに耳が向かっていくようであった。流れるように自然な演奏であった。技巧は非常に優れているが、それに溺れていなかった。むしろ、技巧を前面に出さないように、注意深く演奏しているようだった。だから、聴いていても、演奏者の余計な感情を感じることがなかった。こういう演奏をする人を、右大将は自分の姉以外には知らなかった。右大将は、久しぶりに琴の音色を聴いて、心地よい気分になることができたと思った。
右大将の心を現在一番占めている近江も琴の演奏が上手であった。寄人の娘ではあるが、近江国あたりだと、寄人でも富裕な者が多い。貴族顔負けの邸宅、調度、教養を持っているものもいる。近江の実家がそうだった。近江は小さな頃から教育熱心な両親にさまざまな教養と技芸を仕込まれ、上流の娘にも負けないような洗練された女性になっていた。しかし、近江はそういう育ちの女によくあることだが、負けん気が強かった。そして、それは彼女の立ち居振る舞いの端々に、非常に微妙に現れていた。
右大将は、近江に夢中になっていたが、近江のそういうところだけは、普段からなんとなくだが、気になっていた。特に近江が琴を演奏するときは、耳をふさいで、他の部屋に行きたくなることがしばしばであった。女房たちはだれもそんなことは感じないようであった。近江の演奏の巧みさに舌を巻くばかりであった。姉といっしょに小さな頃から琴を練習してきた右大将は、それがとても気になるのだった。
小さな頃は、姉も右大将も技巧を競い合ったものだが、あるときから、それをむなしく思うようになり、二人とも技巧を抑えて、澄んだ心を琴に乗せるようになった。その頃には、貴族社会で、右大将とその姉に、琴でかなうような者は一人もいなかったが、二人はすでに琴の演奏の巧みさで、だれかに勝とうとは思っていなかった。それよりは、自然に心が現れるような演奏や自然をそのまま現したような演奏を好むようになっていた。
姉が宣耀殿女御となって、先帝に入内したあとは、右大将はだれかの琴の演奏を聴いていたいと思うことがなくなった。そして、姉が亡くなってからは、もう琴の演奏は二度と聴きたくないと思っていた。
近江は当然右大将と姉が琴の名人であることを知っている。自分も近江国では、二人といない名手であると評判を勝ち取っていたから、右大将にはどうしても聴いてほしかった。右大将が姉のことをとても好きだったということも、人々から聞いて知っていたので、その対抗心から、余計に右大将に自分の琴を聴かせようとした。そういう気持ちがあるから、余計に近江の琴は技巧的になった。だれもが上手に弾けないような難しい曲を、近江は間違えずに弾きこなした。だれもが近江の琴を絶賛したが、右大将には、それがいやであった。ちょうどそういうときに、今宵の琴の音色であった。部屋の話し合いは、右大将の耳にあまり入らなくなった。
「右大将様が眠そうになっていらっしゃいますな」
惟常が言うと、僧都は笑った。
「馴れない長旅でお疲れになったのでしょう。惟常、寝室にご案内してください」
「かしこまりました」
惟常が部屋の外に行くと、しばらくして若い女房が入ってきた。女房に起こされた右大将は、素直に付いていった。
廊は足に冷たかった。すっかり目の覚めた右大将は、女房に訊いた。
「あの琴はだれが弾いているのですか」
「中の君様でございます」
「中の君?」
「失礼いたしました。つい、いつもの癖で。お亡くなりなった兵部卿宮様の二女でいらっしゃるのです」
「そうですか。実は、私は、あの方に伺いたいことがあるのです」
女房は困ったように右大将を見た。