按察

按察
prev

42

 二人が沈黙していると、また水の打つ音が響いた。それに柔らかい琴の音色が混ざる。
「あの琴の音色は、大変すばらしいです。京でもあれほどの演奏をする人はいないでしょう」
 右大将がそう言うと、女房は顔をほころばせた。
「ほんとうに、そうですよね。中の君様の琴の音色は、すばらしいです。しかし、京にはそのようなすばらしい名手がたくさんいらっしゃるとうかがっておりますが」
「いや、これほどの腕の者は、なかなかいませんよ」
「しかし、右大将様は、都一の名手と、こちらの地方でも鳴り響いておりますよ」
「なにをおっしゃいますか。恥ずかしいことです。私の演奏を聞いたら、みなさんがっかりなさいますよ。もっとも私の姉は、私が申し上げるのもおこがましいですが、人並みには演奏することができました。私は、この姉の演奏には、とうとう最後までかないませんでした」
「最後まで?」
「ええ、二年前に他界してしまいました」
「ああ、そうでした。これは、うっかり、失礼なことを申し上げました。お許し下さいませ」
「それで、いかがでしょうか。私は中の君様に、少しおうかがいしたいことがあるのです」
「それは、しかし、どうでしょう?」
 女房の眉がまた寄った。
「いえ、誤解なさらないで下さいよ。実は私が訊きたいことは、この琴の曲をどこで習いなさったのかということなのです」
「それがなにか?」
「ええ、この曲は私たちの父が伝授して下さった秘曲です。これを知るのは、今や私以外にはいないはずなのです」
「え? そんなに貴重な曲だったのですか?」
「そうです。中の君様がなぜ知っていらっしゃるのか、不思議に思われませんか?」
「はい。私も中の君様がだれからご伝授されたのか、知りたいです」
「そうでしょう。ですから、このことを姫君に訊いていただきたいのです。わがままなお願いで申し訳ありませんが、どうかよろしくお願いいたします」
「わかりました。中の君様にうかがって参ります」
「ありがとうございます」
 右大将は、深く頭を下げた。女房は、中の君の部屋に行く途中、なんて素敵な殿方だろうかと、右大将のことを考えていたが、部屋に入ると、自分の立場をしっかりわきまえて、忠実に務めを果たした。
 暗い中に立っていると、女房が戻ってきた。
「直接申し上げたいとおっしゃっております」
 まさかと右大将は思った。返事もいただけないだろうと覚悟していたところだったので、会えることになって、かえって狼狽してしまった。しかし、右大将は、女房の導くまま、部屋の奥へと入っていった。
 よい香りがした。琴の音がやんだ。灯台の火に照らされ、白い顔が温かみのある色になっていた。まさか顔を拝することまでできるとは。右大将は意外に思った。それにしても美しい顔立ちであった。右大将ははっと息を呑んだ。
「あなたは?」
 思わず右大将は口に出してしまった。
「申し訳ございませんでした。このようなところにまでお邪魔いたしまして、しかも、意味不明なことを申し、ほんとうに失礼いたしました」
 右大将は、自分がだれで、なんのためにここまで来たかを説明した。中の君は気さくで、愛らしく、明るかった。
「まあ、右大将様、そんな堅苦しいあいさつは結構でございますわ。私は、小さなころからずっと僧都のお世話になり、あなた様のことは、たくさんうかがっております。ですから、あなた様には、まるで私のお兄様のように親しみを感じているのです。ところで、なにかいいかけなさいませんでしたか?」
「いや、その、一瞬、私の姉と見間違えてしまったのです」
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日