按察

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 明るい声はあちらからもこちらからも聞こえてきた。右大将は、自分を笑っているのだろうかと勘ぐった。自分は周囲のだれの心もとらえきれなくなってきている。しかし、周囲は自分の心を完全に見透かしているようだ。自分の知りたいことは、いつも聞きそびれている。わざと話をそらしているのではないだろうか。僧都は亡くなった大納言の話をいまだにしていない。中の君はあの曲をだれに教わったか話していない。いや、自分が聞きそびれたのだ。訊こうとしたが、彼女は自分の気持ちを違う方向に向けてしまったのだ。
「右大将様、どうされましたか?」
 僧都は右大将が考え込んでいるのに気付き、心配した。
「いや、私はいろいろなことがわからなくて、頭が混乱しているのです」
「なるほど」
 僧都は右大将の不安はもっともであると思い、気持ちを少し整理してあげようと考えた。それには、このことを話すのが一番よいだろうと思った。
「故大納言様のことを少しお話いたしましょうか?」
「お願いします」
「故大納言様は先帝の二宮を東宮に立てたかったのです」
「はい、その通りです」
「しかし、失敗しました」
「あの男のせいですね」
「そうです」
 明るい女性の声がまた聞こえてきた。中の君であろうと右大将は思った。
「二宮がその後どうおなりになったかはご存知ですね」
「兵部卿宮におなりになったと記憶しております」
「故大納言様は、亡くなるときまで、どうにかして兵部卿宮を帝位に付けたいと、その計画を練っておられました」
「そうだったのですか!」
「しかし、その兵部卿宮もその数年後にお亡くなりになりました」
「まさかあの男が関係しているのでは?」
「それはわかりません。表向きは病死です」
「しかし、兵部卿宮のことが、なにか私に関係があるのですか?」
「私は兵部卿宮に約束いたしました」
「それは?」
「摂津派とあの男を倒して、兵部卿宮の姫君を皇后にすることです。もし皇后になれなければ、関白の妻にして、その娘を皇后にするようにと仰せでした。私は亡くなった兵部卿宮の三人の姫君を明石にお連れして、今まで大切にお世話申し上げて参りました。大君はすでに嫁いでおります。中の君と三の君は、まだこちらにいらっしゃいますが、中の君には、すでにお会いになったとか」
 右大将は顔を赤らめた。
「では、あの方は兵部卿宮のお子様なのですか?」
「そうです。あなた様は、故大納言様を慕っておられたようですから、故大納言様の遺志を継ぐにはきわめて適任であると思っております」
「では、私は中の君を家に迎えてもよろしいのですか?」
「もちろんです。実はそのようにお考えいただきたいと思って、わざわざこのような片田舎までお出でいただいたというわけなのです」
「それはほんとうに光栄なことです。ぜひ中の君をお迎えさせていただきたいと存じます」
「ありがとうございます。待遇はあなた様にお任せいたします」
「いえ、無論北の方としてお迎えいたします」
「よろしいのですか?」
 右大将は、近江の君への思いが薄らいでいくのを、我ながら薄情なものだと思ったが、中の君のあまりのすばらしさの前には、自分の気持ちをどうすることもできなかった。
「はい、家の者には私の方から、じっくりと事情を説明し、理解してもらおうと思います。それに、私の予想では、母はこのことを納得してくれるのではないかと思います」
「私もそう思います」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日