按察
48
右大将の二条院も庭園が見事であった。車宿りから北の対に行くあいだ、中将の君の目は次から次に現れる木々や花々に奪われた。右大将の父は当代きっての風流人と評判が高かった。その父の秘蔵っ子である右大将もやはり世間での評判が並々ではない。その右大将の二条院に訪問できたことが、中将の君には夢のように思えた。
「お待ち申し上げておりました。本当にこのようなむさ苦しいところへよくおいでくださいました。なにしろ男一人で暮らしておりますから、家の中が殺風景で困ったものです。今日はどうかあなたのすばらしい風儀をお授けいただき、わが家が少しでも人並みに見られるようにしていただけば幸いでございます」
中将の君は右大将直々に出迎えてくれるとは予想していなかったので、感動した。
「とんでもございません。本日は私のような教養のない者をお招きくださいまして、恐縮の至りでございます。親王様の奥方様も里下がりなさっているとうかがっております。そのような畏れ多いお屋敷に、お招きいただいただけでももったいないことですのに、厚かましくも押しかけてしまいまして、世間の人が聞いたら、あきれることでございましょう」
中将の君が「親王様の奥方様」と言ったのは、近江の君のことである。親王とはうまく行かず、現在は実質的に右大将の妻になっているが、表向きは一時的に里下がりしたということにしてある。右大将に昇格してすぐに、親王から譲り受け、北の方に迎える予定でいたが、そのことは現在保留になっている。
西の対の方から高い琴の音がする。難しい曲が急流のようにほとばしっている。
中将の君は聞きほれた。
「あれは親王様の奥方様が弾いていらっしゃるのでしょうか」
「失礼いたしました。中断させましょう」
「そんな、いけませんわ。素敵な演奏でいらっしゃいます。親王様の奥方様は、琴の名手とうかがっておりましたが、ほんとうにこれほどの腕前の方は、右大将様を除きましては、ほかにいらっしゃられないでしょう」
「これをしのぐ人が京に現れますよ」
「どういうことでございましょうか」
「実はそのことであなたをお呼びいたしました。近々田舎からこの家に移り住む人があります。あなたの香道の技を、その人に授けていただきたいのです」
「それでは、私はこちらへ定期的におうかがいしてもよろしいのでしょうか」
中将の君は顔をほころばせた。病気に苦しむ関白はいつどうなるかわからない。主人を失った女房ほど哀れな者はない。すぐに奉公先を見つけられればいいが、最近は女房も余っていて、何十軒も当たってやっと将来性のおぼつかない屋敷に引き取ってもらえれば、まあいいほうだ。関白のところに奉公していたなどという経歴はなんの役にも立たない。やはり父親の階級が重要だ。しかし彼女の家柄は受領である。それでも父は非常に才能と運に恵まれ、中将にまで昇進した。一族の中では、近来の快挙と言える。ただもう高齢であり、これ以上の昇進は期待できない。若くしてすでに右大将になった摂関家の御曹司とはまったく事情が違うのである。大将と中将。たった一字の違いだが、現実世界のなんとも厳しいことよ。中将の君は心の中でため息をついた。
「いえ、もしあなたさえよろしければ、こちらにお住まいいただきたいのです」
右大将は不安そうに続けた。
「関白殿にはお許しを得ていますので、あとはあなたのお心次第です」
「ふつつかな者ですが、以後なんなりとご命じくださいませ」
中将の君は深々と頭を下げた。頭を上げると戸が開いて、何人もの女房が入ってきた。いずれも衣装、音楽、和歌などの道で世に知られた者であった。
中将の君は右大将に声をかけられた理由がやっとわかった。右大将はその道の専門家を集めていたのである。中将の君は香道では並ぶ者がないと評判だった。
「では、この人たちにまずご指南願います」
女房の出世の手段は、父親の階級と芸道の実力であった。
「お待ち申し上げておりました。本当にこのようなむさ苦しいところへよくおいでくださいました。なにしろ男一人で暮らしておりますから、家の中が殺風景で困ったものです。今日はどうかあなたのすばらしい風儀をお授けいただき、わが家が少しでも人並みに見られるようにしていただけば幸いでございます」
中将の君は右大将直々に出迎えてくれるとは予想していなかったので、感動した。
「とんでもございません。本日は私のような教養のない者をお招きくださいまして、恐縮の至りでございます。親王様の奥方様も里下がりなさっているとうかがっております。そのような畏れ多いお屋敷に、お招きいただいただけでももったいないことですのに、厚かましくも押しかけてしまいまして、世間の人が聞いたら、あきれることでございましょう」
中将の君が「親王様の奥方様」と言ったのは、近江の君のことである。親王とはうまく行かず、現在は実質的に右大将の妻になっているが、表向きは一時的に里下がりしたということにしてある。右大将に昇格してすぐに、親王から譲り受け、北の方に迎える予定でいたが、そのことは現在保留になっている。
西の対の方から高い琴の音がする。難しい曲が急流のようにほとばしっている。
中将の君は聞きほれた。
「あれは親王様の奥方様が弾いていらっしゃるのでしょうか」
「失礼いたしました。中断させましょう」
「そんな、いけませんわ。素敵な演奏でいらっしゃいます。親王様の奥方様は、琴の名手とうかがっておりましたが、ほんとうにこれほどの腕前の方は、右大将様を除きましては、ほかにいらっしゃられないでしょう」
「これをしのぐ人が京に現れますよ」
「どういうことでございましょうか」
「実はそのことであなたをお呼びいたしました。近々田舎からこの家に移り住む人があります。あなたの香道の技を、その人に授けていただきたいのです」
「それでは、私はこちらへ定期的におうかがいしてもよろしいのでしょうか」
中将の君は顔をほころばせた。病気に苦しむ関白はいつどうなるかわからない。主人を失った女房ほど哀れな者はない。すぐに奉公先を見つけられればいいが、最近は女房も余っていて、何十軒も当たってやっと将来性のおぼつかない屋敷に引き取ってもらえれば、まあいいほうだ。関白のところに奉公していたなどという経歴はなんの役にも立たない。やはり父親の階級が重要だ。しかし彼女の家柄は受領である。それでも父は非常に才能と運に恵まれ、中将にまで昇進した。一族の中では、近来の快挙と言える。ただもう高齢であり、これ以上の昇進は期待できない。若くしてすでに右大将になった摂関家の御曹司とはまったく事情が違うのである。大将と中将。たった一字の違いだが、現実世界のなんとも厳しいことよ。中将の君は心の中でため息をついた。
「いえ、もしあなたさえよろしければ、こちらにお住まいいただきたいのです」
右大将は不安そうに続けた。
「関白殿にはお許しを得ていますので、あとはあなたのお心次第です」
「ふつつかな者ですが、以後なんなりとご命じくださいませ」
中将の君は深々と頭を下げた。頭を上げると戸が開いて、何人もの女房が入ってきた。いずれも衣装、音楽、和歌などの道で世に知られた者であった。
中将の君は右大将に声をかけられた理由がやっとわかった。右大将はその道の専門家を集めていたのである。中将の君は香道では並ぶ者がないと評判だった。
「では、この人たちにまずご指南願います」
女房の出世の手段は、父親の階級と芸道の実力であった。