按察

50
琴の音が流れると、木に鳥がとまる。鳥の声が琴の音と合わさり、夢の中にいるようだ。
「あら、いい声で鳴いているわね」
紀伊が入ってきた。
「殿が琴を弾くと、あの鳥いつもやってくるわね」
讃岐が紀伊の後ろから入ってきた。
「あの鳥って、どの鳥?」
紀伊が訊くと、讃岐が簀子に出て、指さした。
「ほら、あのうぐいすよ」
たしかに讃岐がさした枝には緑色の鳥が一羽止まっていた。
「どれどれ」
中将の君も簀子に出た。
「なに言ってるのよ。あれはうぐいすじゃなくて、めじろよ」
「そうよ、だいいち鳴き声が違うでしょ」
紀伊は中将の君と同意見だった。
「でも、ホーホケキョって鳴いたのよ。
鳥は一向にそのようには鳴かなかった。
「おかしいな。この間はホーホケキョって鳴いたのに」
「でも、うぐいすは花の蜜を吸わないでしょ」
中将の君の言うとおり、鳥は梅の花にくちばしをつっこんで蜜を吸っていた。
「えー! そうなの?」
「そうよ」
「ほら、仕上がったわ」
中将の君は、伏籠から着物を取り、紀伊に渡した。
「わあ、いい香り。殿の香りは格別だわ」
紀伊が衣装に顔を押し当てると、讃岐も横から顔に押し当てた。
「ほんと! ねえ、中将の君、この香り、どうやって調合するの」
「ごめんなさい。これは教えられないの」
「そうよね、殿の香りをあちこちで真似されたら困るものね」
「残念」
「あまり顔を押し当てて、しわを作らないでね」
「そうだった。今夜の五十日(いか)の祝いで殿が着るんだった」
紀伊が慌てて顔を離した。
「もう、五十日たつのかあ」
讃岐は調度を手に持ちながら、しみじみ言った。
大納言にとって二人目の娘だった。かつ、三人目の子どもだった。明石から二宮の中の君を迎え入れて何年たったろう。そのときに近江の君とは別れた。近江の君と是非ともいっしょになりたいと四宮が以前から申し入れていたので、今は六条の四宮邸にいる。四宮は、近江の君が、親王(現在は皇太子であるが)とうまく行かなくなったころから関係があったらしい。大納言を近江の君の義理の兄だと信じているし、まさか彼女が寄人の娘だとは思っていないだろう。大納言が、近江の君を北の方にするのをためらわせる原因には、四宮との関係もあったのである。しかし、二宮の中の君を迎えることで、その問題はすっきり片が付いた。ときどき美しい近江の君を思い出し、手紙を出したくなることもあったが、大納言はそれをこらえて、兄として六条の四宮邸で、常識的な交際を続けていた。大納言は今までにほとんど近江の君と二宮の中の君ぐらいにしか愛情を示したことがない。近江の君が四宮のところへ行ってしまってからは、中の君を北の方として、一途に愛情を傾けていた。僧都からは一族の繁栄のために、ほかにも妻を持つよう言われているが、まったくその気にはならないのであった。
上の娘を皇太子に嫁がせることは決まっているし、下の娘は、いずれ四宮に嫁がせれば安泰だろうと考えていた。従兄の娘は天皇に入内していたが、これはやむを得なかった。今でも相応の勢力を有している摂津派に協力してもらうための条件だったのだ。従兄は、かつて自分に譲った右大将をようやく今取り戻したが、もはや昇進の速度は遅々たるものである。娘が入内したといっても、近々皇太子が天皇に即位することは、政権の中枢ではほぼ決定事項になっている。皇太子にも四宮にも娘を嫁がせていない従兄は、いつまでたっても政権の中枢には近づけまい。
五十日(いか)の祝いの準備をする女房たちの声を聞きながら、大納言は満足を覚えていた。
「あら、いい声で鳴いているわね」
紀伊が入ってきた。
「殿が琴を弾くと、あの鳥いつもやってくるわね」
讃岐が紀伊の後ろから入ってきた。
「あの鳥って、どの鳥?」
紀伊が訊くと、讃岐が簀子に出て、指さした。
「ほら、あのうぐいすよ」
たしかに讃岐がさした枝には緑色の鳥が一羽止まっていた。
「どれどれ」
中将の君も簀子に出た。
「なに言ってるのよ。あれはうぐいすじゃなくて、めじろよ」
「そうよ、だいいち鳴き声が違うでしょ」
紀伊は中将の君と同意見だった。
「でも、ホーホケキョって鳴いたのよ。
鳥は一向にそのようには鳴かなかった。
「おかしいな。この間はホーホケキョって鳴いたのに」
「でも、うぐいすは花の蜜を吸わないでしょ」
中将の君の言うとおり、鳥は梅の花にくちばしをつっこんで蜜を吸っていた。
「えー! そうなの?」
「そうよ」
「ほら、仕上がったわ」
中将の君は、伏籠から着物を取り、紀伊に渡した。
「わあ、いい香り。殿の香りは格別だわ」
紀伊が衣装に顔を押し当てると、讃岐も横から顔に押し当てた。
「ほんと! ねえ、中将の君、この香り、どうやって調合するの」
「ごめんなさい。これは教えられないの」
「そうよね、殿の香りをあちこちで真似されたら困るものね」
「残念」
「あまり顔を押し当てて、しわを作らないでね」
「そうだった。今夜の五十日(いか)の祝いで殿が着るんだった」
紀伊が慌てて顔を離した。
「もう、五十日たつのかあ」
讃岐は調度を手に持ちながら、しみじみ言った。
大納言にとって二人目の娘だった。かつ、三人目の子どもだった。明石から二宮の中の君を迎え入れて何年たったろう。そのときに近江の君とは別れた。近江の君と是非ともいっしょになりたいと四宮が以前から申し入れていたので、今は六条の四宮邸にいる。四宮は、近江の君が、親王(現在は皇太子であるが)とうまく行かなくなったころから関係があったらしい。大納言を近江の君の義理の兄だと信じているし、まさか彼女が寄人の娘だとは思っていないだろう。大納言が、近江の君を北の方にするのをためらわせる原因には、四宮との関係もあったのである。しかし、二宮の中の君を迎えることで、その問題はすっきり片が付いた。ときどき美しい近江の君を思い出し、手紙を出したくなることもあったが、大納言はそれをこらえて、兄として六条の四宮邸で、常識的な交際を続けていた。大納言は今までにほとんど近江の君と二宮の中の君ぐらいにしか愛情を示したことがない。近江の君が四宮のところへ行ってしまってからは、中の君を北の方として、一途に愛情を傾けていた。僧都からは一族の繁栄のために、ほかにも妻を持つよう言われているが、まったくその気にはならないのであった。
上の娘を皇太子に嫁がせることは決まっているし、下の娘は、いずれ四宮に嫁がせれば安泰だろうと考えていた。従兄の娘は天皇に入内していたが、これはやむを得なかった。今でも相応の勢力を有している摂津派に協力してもらうための条件だったのだ。従兄は、かつて自分に譲った右大将をようやく今取り戻したが、もはや昇進の速度は遅々たるものである。娘が入内したといっても、近々皇太子が天皇に即位することは、政権の中枢ではほぼ決定事項になっている。皇太子にも四宮にも娘を嫁がせていない従兄は、いつまでたっても政権の中枢には近づけまい。
五十日(いか)の祝いの準備をする女房たちの声を聞きながら、大納言は満足を覚えていた。