按察

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52

 梅の花が、夜空に雪のように散っている。
 二頭の馬が、星の中を駆けめぐるように見える。
「いつもながら、助かるな」
「お任せください」
 藤原惟道は、なんでもないように、言った。
「あなたがいてくれるので、ほんとうに心強い」
「ご家族は、武士たちがお守りいたしております」
「僧都は、大丈夫なのか」
「現在、交渉中でございます」
「摂津派が仕掛けてきたのだろうか?」
「うかつでした」
「検非違使の別当は、主上の女房が僧都の紹介を受けたと言っていたが」
「だれかの陰謀です。毒物を大量に持っている女房など、見え透いた嘘です。ほんとうに主上を狙うような者は、そんなわかりやすい証拠など、どこにも残しておきませんよ」
「その女房が嘘を言っているとしても、それとは別に主上を狙っていた者がいたということなのか」
 惟道は、鋭いまなざしを大納言に向けた。
「それは、なにも知らない方がよいでしょう」
 大納言は、それはどういうことか、問いただそうとしたが、惟道の眼光が異様に鋭いので、口を開くことができなかった。大納言には近づきがたい領域があった。その領域は、大納言を守っていたが、しかし、その領域は、なにかの加減で、大納言を危難に陥れる性格のものにも思えた。
 惟道の声が、風に乗って、大納言の耳に入ってきた。
「今は、その女房が僧都と無関係であることを、全力で証明しなければなりません。今後の政界は、少し厳しいものになるでしょう。主上の譲位と東宮の即位の計画は、またよい機会をうかがう必要がありそうです」
 それは、大納言が予想していたことであったが、惟道に言われると、現実の重さが自分の体に覆いかぶさるような気持ちになった。
「証明できるだろうか?」
「武士たちが女房の家族や知人たちを調べています」
「しかし、もう検非違使たちが動いているだろう」
「もうわかっていることもあります」
 大納言は、馬上で惟道の方に顔を向けた。
「なんだ?」
「その女房は近江から来たようです」
「近江?」
 大納言の頭の中で、黒い雲が次々に湧いて出た。
「殿の義理の妹様……」
「近江の君か?」
「はい。私たちは、実は長年調べておりました」
 大納言の頭の中の黒い雲は、激しい渦になった。
「いつから?」
「故大納言様が、当時の近江掾(おうみのじよう)の家から、連れてきたときからです」
「ずいぶん前だな」
「妹様は、故大納言様にしばらく仕え、やがて殿のお父上に仕えました。その後、殿に仕えることになりました」
「その通りだ」
「僧都は初めからこの方を非常に警戒し、私たちに調べるよう命じました」
「そうだったのか」
「殿が初めて明石にいらっしゃったとき、僧都は、殿と妹様を引き離すことを計画していました」
「そうだったのか」
「僧都と我々の調べた結果からは、故大納言様が、太宰府に左遷されたのも、殿のお父上が急死なさったのも、妹様が原因であるということがわかっています」
「なんと!」
「妹様が直接手を下すわけではありませんが、近江の武士たちが、妹様から得た情報をもとにさまざまな行動をしていたようです」
「近江は播磨派になったのじゃなかったのか?」
「妹様を使う者たちが、曲者でした」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日