按察

按察
prev

53

 月が揺れていた。
「手を伸ばせば、桂の枝が折れそうですね」
 波が音を立てる廊下を歩きながら、大納言は言った。
「ほんとうに今夜はきれいな月が映っておりますね」
 惟道(これみち)も感心しながら言った。
 多くの武士たちが、広い部屋で待っていた。大納言の顔を見ると、一斉にひれ伏した。
 やがて顔を上げると、先頭に座っている播磨掾(はりまのじよう)藤原惟定(これさだ)が挨拶をした。播磨守(はりまのかみ)藤原惟道の子である。
「お久しぶりでございます。大納言様におかれましては、ほんとうにたいそうご立派になられまして、私ども一同これに勝る喜びはございません。大納言様が右大将にご着任早々当地にお見えになった日のことを、ついこの間のことのように覚えております。なにもない田舎でございますので、おもてなしもできませんが、どうぞ日ごろの激務の骨休みをなさってくださいませ。私ども一同心をこめて精いっぱいおもてなしをさせていただきます」
 大納言がかつて、右大将に昇進してすぐ、この明石を訪れたときは、惟定の祖父、すなわち惟道の父、藤原惟常(これつね)が播磨守として、歓待してくれた。惟常ももうこの世にはいない。惟常を深く信頼していた僧都は、囚われの身となっている。世の中の移り変わりの、なんと早いことだろうと、大納言は思った。あのころはまだ子どもであった惟定が、こんなに立派な青年になっているとは、予期していないことであった。部屋に詰めている武士たちも、みなきちんとしていた。実際に会ってみて、大納言は播磨派の頼もしさを喜ばしく感じた。
 挨拶がすむと、宴に移り、和やかな時が流れた。宴がお開きになると、大納言と惟道と惟定の三人だけで、情勢分析をした。
 大納言は、到着直前に惟道が言っていた、近江の君を使う曲者について、詳しく知りたがった。
「この者たちについては、我々も長い間、よくわかりませんでした」
 惟道は順を追って説明した。それは、故大納言の人生をたどる、長い話であった。

 梅の花が雪のように舞う。
 源氏(のちの故大納言)は、臣籍降下したことを嘆いていた。父帝には、皇族は窮屈すぎて、自分のような行儀の悪い男には向いていないから、こうして徒人(ただびと)になれるのは、気楽でいい、などと言って明るく笑ったが、あの小さな弟が皇太子になるのかと思うと、無性に悲しかった。父帝は自分に期待していた。関白も、あなたはいずれ帝王になられる方ですと、常々言ってくれていた。それなのに、自分の娘に皇子が産まれると、手のひらを返すように、態度を変えた。その関白の娘の皇子が、病弱のいとこが亡くなったあと、皇太子になることがほぼ確定した。自分が臣籍降下することに同意したからだ。
 源氏は髪をかきむしった。いつかあの関白を見返してやる。あの関白家をひれ伏させてやる。それには、慎重な計画が必要だった。冷静な判断が必要だった。信頼できる部下が必要だった。
 そう思っていると、従者である近江の寄人(のちの近江掾)が故郷の話を始めた。
「琵琶湖はとても美しいです。私は疲れると、近江へ戻り、琵琶湖の景色をいつまでも眺めています」
 梅の花が雪のように舞っていた。
 このような梅の花が琵琶湖を背景に舞っている景色が見られたら、今の気持ちが少しは慰められるかもしれない。
 そんなことを言うと、近江の寄人は、ほんとうに誘った。
「今から馬を飛ばしてお出かけになりませんか。私の小さな家で、食事など召し上がってください」
 若い源氏は、その気になった。馬を飛ばしたい気分だったのだ。
 寒いのに、汗をかきながら、琵琶湖の見えるところまで、休みなしに飛ばした。
「少将様、そんなに飛ばしては危険ですよ」
 源氏は、少将で近江権守(おうみのごんのかみ)を兼ねているが、寄人は「少将様」とだけ呼んだ。
「なに、まだまだだ」
 寄人の家に着いた。非常に大きかった。
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日