按察

54
梅の香りが体中を優しく包み込んでいた。
源氏は寄人にもてなされ、いい気分になり、深夜まで飲んでいた。気がついたら柔らかい寝具にくるまれ、隣には女がいた。
「あなたは?」
女は黙って座っていた。灯台の明かりがほんのりと女の顔を浮かび上がらせていた。
源氏は寝具の上に起き上がった。
「あなたはこの家の主が大切にしている娘さんですか?」
今度は女の口が開いた。
「いいえ、そうではありませんわ。このあたりで暮らしているものですが、このお屋敷に奉公いたしております」
「そうでしたか。いや、近江というのは、ほんとうに素敵な場所ですね。古い都があっただけのことはあります。あなたもきっと古い都人の末裔なのでしょうね」
女は微笑んで、顔を左右に振った。そのはずみに、よい香りがさっと流れた。
「私などは、この地で昔から百姓をしている家の娘で、都人とは縁もゆかりもありませんわ」
「そうですか。それではこの地のお百姓さんは、昔から優美に生活していらっしゃったのでしょうね。あなたのような素敵な女性のご先祖ですからね」
女は笑いながら、立ち上がった。
「なにかお飲み物でもお持ちいたしましょうか」
「いや、そんなものはいりません。あなたがここにいらっしゃれば、私にはほかになにも必要ありません」
源氏は女の手を引いて、また座らせた。
「まあ、お上手ですこと」
「いえ、いえ、私はお上手には琴を弾くことができないのです」
女は噴き出した。
「もう、そうやって、ご冗談ばっかり」
「冗談ではありませんよ。お聞かせいたしましょう。私がどれほど琴が下手か確かめてください」
「ほんとうにご用意してよろしいのですか」
「恥ずかしいですが、少しだけでしたら」
まもなく他の女も手伝い、琴が用意された。
「しかし、こんな夜中に弾いたら、みなさんにご迷惑でしたね」
「こちらは母屋から離れていますから、音は聞こえませんわ。こちらには私たちだけですから、ご遠慮なくどうぞ」
「やはり弾かなくてはいけないようですね。なんとか逃げれられると思ったのですが」
女たちも調子を合わせた。
「少将様、もう逃げられませんよ。お下手とおっしゃる琴の音を、私たちがもういいと言うまで、お弾きになってくださいませ」
源氏はわざと困りきった顔をして、琴を弾き始めた。
月明かりの下で、梅が雪のようにひらひら舞っているような、琴の音色であった。
女たちはじっと聴き入っていた。
源氏はいつまでも琴を弾いていた。
二人は時が止まったかのように、じっと動かなかった。
源氏が動きをやめた。
女たちはしきりに拍手をした。
「もっと弾いていただきたいです」
「いや、でも、もう疲れましたよ」
「いじわる」
二人の女はすっかり源氏に打ち解けていた。
「また、今度おうかがいするときに、きっと演奏いたしましょう」
「約束ですよ」
「私がこちらへ来るときには、必ずあなたたちが私の担当をなさってくださるというのでしたらね」
「もちろんですよ」
二人ははしゃいだ。
三人はしばらく話に盛り上がっていた。
「もう、お休みにならないと、明日居眠りをして、恐い人に叱られますよ」
「ここまで来たら、夜が明けるまでお話ししましょうよ」
源氏は二人をどうにか外へ出して、ほんのわずかの時間、睡眠を取った。
源氏は、近江の寄人の家を、気の置けない実家のように思うようになっていった。
寄人も、源氏との仲を次第に深め、いつしか強い主従関係が形成されていった。
近江派もこのことを喜んだ。
源氏は寄人にもてなされ、いい気分になり、深夜まで飲んでいた。気がついたら柔らかい寝具にくるまれ、隣には女がいた。
「あなたは?」
女は黙って座っていた。灯台の明かりがほんのりと女の顔を浮かび上がらせていた。
源氏は寝具の上に起き上がった。
「あなたはこの家の主が大切にしている娘さんですか?」
今度は女の口が開いた。
「いいえ、そうではありませんわ。このあたりで暮らしているものですが、このお屋敷に奉公いたしております」
「そうでしたか。いや、近江というのは、ほんとうに素敵な場所ですね。古い都があっただけのことはあります。あなたもきっと古い都人の末裔なのでしょうね」
女は微笑んで、顔を左右に振った。そのはずみに、よい香りがさっと流れた。
「私などは、この地で昔から百姓をしている家の娘で、都人とは縁もゆかりもありませんわ」
「そうですか。それではこの地のお百姓さんは、昔から優美に生活していらっしゃったのでしょうね。あなたのような素敵な女性のご先祖ですからね」
女は笑いながら、立ち上がった。
「なにかお飲み物でもお持ちいたしましょうか」
「いや、そんなものはいりません。あなたがここにいらっしゃれば、私にはほかになにも必要ありません」
源氏は女の手を引いて、また座らせた。
「まあ、お上手ですこと」
「いえ、いえ、私はお上手には琴を弾くことができないのです」
女は噴き出した。
「もう、そうやって、ご冗談ばっかり」
「冗談ではありませんよ。お聞かせいたしましょう。私がどれほど琴が下手か確かめてください」
「ほんとうにご用意してよろしいのですか」
「恥ずかしいですが、少しだけでしたら」
まもなく他の女も手伝い、琴が用意された。
「しかし、こんな夜中に弾いたら、みなさんにご迷惑でしたね」
「こちらは母屋から離れていますから、音は聞こえませんわ。こちらには私たちだけですから、ご遠慮なくどうぞ」
「やはり弾かなくてはいけないようですね。なんとか逃げれられると思ったのですが」
女たちも調子を合わせた。
「少将様、もう逃げられませんよ。お下手とおっしゃる琴の音を、私たちがもういいと言うまで、お弾きになってくださいませ」
源氏はわざと困りきった顔をして、琴を弾き始めた。
月明かりの下で、梅が雪のようにひらひら舞っているような、琴の音色であった。
女たちはじっと聴き入っていた。
源氏はいつまでも琴を弾いていた。
二人は時が止まったかのように、じっと動かなかった。
源氏が動きをやめた。
女たちはしきりに拍手をした。
「もっと弾いていただきたいです」
「いや、でも、もう疲れましたよ」
「いじわる」
二人の女はすっかり源氏に打ち解けていた。
「また、今度おうかがいするときに、きっと演奏いたしましょう」
「約束ですよ」
「私がこちらへ来るときには、必ずあなたたちが私の担当をなさってくださるというのでしたらね」
「もちろんですよ」
二人ははしゃいだ。
三人はしばらく話に盛り上がっていた。
「もう、お休みにならないと、明日居眠りをして、恐い人に叱られますよ」
「ここまで来たら、夜が明けるまでお話ししましょうよ」
源氏は二人をどうにか外へ出して、ほんのわずかの時間、睡眠を取った。
源氏は、近江の寄人の家を、気の置けない実家のように思うようになっていった。
寄人も、源氏との仲を次第に深め、いつしか強い主従関係が形成されていった。
近江派もこのことを喜んだ。