按察

55
桜の花びらが馬の耳や鼻を隠した。馬は立ち止まると、頭を振った。
「桜が雪のようですね」
女が、馬の体についた桜を払った。ここへ最初に来た夜からのなじみだ。水海(みずうみ)という。
水海は主の部屋まで源氏と歩いた。
庭園はどこもよく手入れされていた。
「もう藤も咲いていますね」
「はい、今年は早いです」
「つつじも咲きましたね」
「少将様がお見えになるのを、待っていたのでしょう」
「私などを待ってくれるのは、つつじだけですよ」
「そんなことはありません。夕美姫(ゆみひめ)様だって、それはもう楽しみにしていらっしゃいますわ」
夕美姫は、主の娘だ。
「しかし、夕美姫様は、まだ赤ちゃんではありませんか」
「あら、それは、少将様が、こちらへお出でになった初めのころのことですわ。もう立って歩いて、どこへでもお出かけになりますのよ」
「それは知りませんでした。それで、夕美姫様が、私が来るのを待っていてくださるというのですか。それはまた、どういうわけでしょう」
「少将様の演奏なさる琴の音をお聴きになるのが、お気に入りのようですわ」
「そうですか、それはまた、演奏しがいがあるというものです」
「教えてくださらないかしらって、いつもおっしゃっていますわ」
「そんなのたやすいことですよ。こちらへうかがうときは、毎回お教えいたしましょうと、伝えてください」
「それは、きっとお喜びになりますわ。ありがとうございます。それでは、私はこれで失礼いたします。ご用がお済みになりましたら、お呼びくださいませ。夕美姫様のお部屋にご案内いたします」
「どうもありがとう」
部屋に入ると主は難しい顔をしていた。
「どうしましたか。そんなに難しい顔をなさって」
「いえ、どうということもございませんが、先ほど摂津の使者がやって来まして」
「それはまた、どんな用件で」
「いや、最近播磨派が勢力を拡大しているので、それに対抗するために、手を組みたいというのです」
「僧都が播磨派を取りしきるようになってから、西国はまとまりが出てきましたね」
「そうなんです。まさか九州と四国の武士が手を結ぶとは思っていませんでした。このままでは畿内から播磨派につく者が出てくるかもしれないから、早く結束を固めた方がよいと言われました」
「しかし、それは条件次第ですね」
「そうなんです。摂津派は摂津守が率いていますが、こちらは、そういう地位は持っていません。私はたかが寄人にすぎません」
「しかし、近江派の武士たちは、みなあなたを信頼していますよ」
「そうなのですが、やはり勢力が大きくなると、摂津守などという地位が説得力を持つようです」
「播磨派の僧都は、国司でもなんでもないが」
「僧都は、播磨守を従えています。僧都が権中納言だったとき、播磨守はまだ掾でした。僧都が働きかけて守になれたのです」
「私にあなたの地位を上げる力があればいいのだが」
「いえ、いえ、そんなつもりでは」
「それでは、摂津守は、東日本をまとめるために、摂津派と近江派を統合しようと言うのですね」
「はい」
「束ねるのは、摂津守というわけですか」
「はい」
「それは飲めないな」
「そうなのです」
「それを飲んだら、摂関家がますます増長する」
「そうなのです」
「近江派に合流するのなら、話に乗ろうと言ってやればいいでしょう」
「納得しませんよ」
「しなくていいんですよ」
「桜が雪のようですね」
女が、馬の体についた桜を払った。ここへ最初に来た夜からのなじみだ。水海(みずうみ)という。
水海は主の部屋まで源氏と歩いた。
庭園はどこもよく手入れされていた。
「もう藤も咲いていますね」
「はい、今年は早いです」
「つつじも咲きましたね」
「少将様がお見えになるのを、待っていたのでしょう」
「私などを待ってくれるのは、つつじだけですよ」
「そんなことはありません。夕美姫(ゆみひめ)様だって、それはもう楽しみにしていらっしゃいますわ」
夕美姫は、主の娘だ。
「しかし、夕美姫様は、まだ赤ちゃんではありませんか」
「あら、それは、少将様が、こちらへお出でになった初めのころのことですわ。もう立って歩いて、どこへでもお出かけになりますのよ」
「それは知りませんでした。それで、夕美姫様が、私が来るのを待っていてくださるというのですか。それはまた、どういうわけでしょう」
「少将様の演奏なさる琴の音をお聴きになるのが、お気に入りのようですわ」
「そうですか、それはまた、演奏しがいがあるというものです」
「教えてくださらないかしらって、いつもおっしゃっていますわ」
「そんなのたやすいことですよ。こちらへうかがうときは、毎回お教えいたしましょうと、伝えてください」
「それは、きっとお喜びになりますわ。ありがとうございます。それでは、私はこれで失礼いたします。ご用がお済みになりましたら、お呼びくださいませ。夕美姫様のお部屋にご案内いたします」
「どうもありがとう」
部屋に入ると主は難しい顔をしていた。
「どうしましたか。そんなに難しい顔をなさって」
「いえ、どうということもございませんが、先ほど摂津の使者がやって来まして」
「それはまた、どんな用件で」
「いや、最近播磨派が勢力を拡大しているので、それに対抗するために、手を組みたいというのです」
「僧都が播磨派を取りしきるようになってから、西国はまとまりが出てきましたね」
「そうなんです。まさか九州と四国の武士が手を結ぶとは思っていませんでした。このままでは畿内から播磨派につく者が出てくるかもしれないから、早く結束を固めた方がよいと言われました」
「しかし、それは条件次第ですね」
「そうなんです。摂津派は摂津守が率いていますが、こちらは、そういう地位は持っていません。私はたかが寄人にすぎません」
「しかし、近江派の武士たちは、みなあなたを信頼していますよ」
「そうなのですが、やはり勢力が大きくなると、摂津守などという地位が説得力を持つようです」
「播磨派の僧都は、国司でもなんでもないが」
「僧都は、播磨守を従えています。僧都が権中納言だったとき、播磨守はまだ掾でした。僧都が働きかけて守になれたのです」
「私にあなたの地位を上げる力があればいいのだが」
「いえ、いえ、そんなつもりでは」
「それでは、摂津守は、東日本をまとめるために、摂津派と近江派を統合しようと言うのですね」
「はい」
「束ねるのは、摂津守というわけですか」
「はい」
「それは飲めないな」
「そうなのです」
「それを飲んだら、摂関家がますます増長する」
「そうなのです」
「近江派に合流するのなら、話に乗ろうと言ってやればいいでしょう」
「納得しませんよ」
「しなくていいんですよ」