按察

57
日が顔を出すと、桜の花びらが赤みを帯びて風に舞った。
廊をこちらに歩く音がする。部屋の前で止まる。
「失礼いたします」
少将は、その声に応じて、勢いよく立ち上がった。
「そうだった。姫君を待たせているのでした」
「あ、そうでしたね。それでは、また、詳細は後ほど詰めましょう」
寄人は、水海に声をかけた。
「待たせてしまって、すまないね」
「いえ、私は構わないのですが、姫君がお呼びしてほしいと、せがみなさるので」
「それでは、急ぎましょう」
廊に出た源氏の衣服に桜の花びらがいくつも止まった。源氏は気づかずに、そのまま夕美姫の部屋に向かった。
ここ数年、源氏がなにかの折にはこの近江に訪れたのは、もちろん、寄人と情勢分析をするためではあったが、それ以上に、優しい水海を相手に話をするためでもあった。水海は自分が源氏の妻になるなどというような、分不相応の願いは持たなかったが、源氏が来れば、いつでもかいがいしく仕え、それを楽しみにもしていた。
源氏が京から来ると、すぐに寄人と会合し、それが終われば宴になり、それが終わって、寝室に入れば、いつも水海と、いつまでも話をしていたから、母屋(もや)と東の対以外に足を運ぶのは、初めてであった。
西の対は、別の場所のようだった。調度や衣服が若やかで、女(め)の童(わらわ)たちが、京にしかないような最新のおもちゃで遊んでいた。
「いやあ、こちらは、京よりもおしゃれなお部屋ですね」
「主人は新しい物好きですので、こんな田舎にはかえって不似合いと思うのですが、しょっちゅう珍しいものを運ばせるようです」
水海は御簾越しに声をかけた。
「姫君、少将様がお見えになりました」
しばらくの間、なんの物音もしなかったが、そのうちに、静かに御簾が上がり、美しい女の童が細長(ほそなが)姿で現れた。
かわいらしく挨拶をすると、水海と源氏を奥に通した。几帳の後ろに座っているのが、夕美姫らしい。
「姫君、少将様をお連れいたしました」
「どうぞ、こちらへ」
源氏は水海に導かれ、几帳の奥へと進んだ。すぐに夕美姫の笑顔が目に飛び込んだ。
「夕美姫です。父上と大切なお話の最中に、こちらまでお越しくださいましてありがとうございます」
ついこの間まで赤ん坊だと思っていたら、もうすっかりこのようなしっかりとした挨拶をできる年齢になっていたので、源氏は月日のあまりの速さに驚いた。髪が扇のように広がり、お辞儀をすると波のように揺れ動いた。
「しばらくお目にかからないうちに、すっかり大人の女性に変わってしまい、まるでかぐや姫を見ているように思います」
「あら、少将様はお口がお上手ですね。私は、まだほんの子どもなんですから、からかわないで下さい」
楽しそうに笑う様子を見ると、たしかに、まだとても小さいのだった。付き添いの者が、化粧や着付けを大げさにしたので、少し大人びて見えたのだ。几帳の奥に人形のように座っていたから、目にそう映ったのだった。
夕美姫は源氏の衣服に桜の花びらがついているのを見て、おかしがった。
「こんなにたくさんついていますよ」
桜の花びらのようなかわいらしい指が桜の花びらをつまんだ。源氏は、なんだかとても夕美姫のことがいとおしくなった。
「姫君ありがとうございます。それにしても、あなたの指は桜の花びらのように小さいですが、これで琴を弾くことがおできるになるですか」
夕美姫は、頬をふくらませて、顔を赤らめた。
「まあ、少将様ったら、失礼ね。では、ご覧になっていてくださいね。私の弾ける曲はあまりないんですけど」
水海がすぐに琴を用意した。
琴の前まで移動する夕美姫は、ほんとうにまだとても小さかった。
廊をこちらに歩く音がする。部屋の前で止まる。
「失礼いたします」
少将は、その声に応じて、勢いよく立ち上がった。
「そうだった。姫君を待たせているのでした」
「あ、そうでしたね。それでは、また、詳細は後ほど詰めましょう」
寄人は、水海に声をかけた。
「待たせてしまって、すまないね」
「いえ、私は構わないのですが、姫君がお呼びしてほしいと、せがみなさるので」
「それでは、急ぎましょう」
廊に出た源氏の衣服に桜の花びらがいくつも止まった。源氏は気づかずに、そのまま夕美姫の部屋に向かった。
ここ数年、源氏がなにかの折にはこの近江に訪れたのは、もちろん、寄人と情勢分析をするためではあったが、それ以上に、優しい水海を相手に話をするためでもあった。水海は自分が源氏の妻になるなどというような、分不相応の願いは持たなかったが、源氏が来れば、いつでもかいがいしく仕え、それを楽しみにもしていた。
源氏が京から来ると、すぐに寄人と会合し、それが終われば宴になり、それが終わって、寝室に入れば、いつも水海と、いつまでも話をしていたから、母屋(もや)と東の対以外に足を運ぶのは、初めてであった。
西の対は、別の場所のようだった。調度や衣服が若やかで、女(め)の童(わらわ)たちが、京にしかないような最新のおもちゃで遊んでいた。
「いやあ、こちらは、京よりもおしゃれなお部屋ですね」
「主人は新しい物好きですので、こんな田舎にはかえって不似合いと思うのですが、しょっちゅう珍しいものを運ばせるようです」
水海は御簾越しに声をかけた。
「姫君、少将様がお見えになりました」
しばらくの間、なんの物音もしなかったが、そのうちに、静かに御簾が上がり、美しい女の童が細長(ほそなが)姿で現れた。
かわいらしく挨拶をすると、水海と源氏を奥に通した。几帳の後ろに座っているのが、夕美姫らしい。
「姫君、少将様をお連れいたしました」
「どうぞ、こちらへ」
源氏は水海に導かれ、几帳の奥へと進んだ。すぐに夕美姫の笑顔が目に飛び込んだ。
「夕美姫です。父上と大切なお話の最中に、こちらまでお越しくださいましてありがとうございます」
ついこの間まで赤ん坊だと思っていたら、もうすっかりこのようなしっかりとした挨拶をできる年齢になっていたので、源氏は月日のあまりの速さに驚いた。髪が扇のように広がり、お辞儀をすると波のように揺れ動いた。
「しばらくお目にかからないうちに、すっかり大人の女性に変わってしまい、まるでかぐや姫を見ているように思います」
「あら、少将様はお口がお上手ですね。私は、まだほんの子どもなんですから、からかわないで下さい」
楽しそうに笑う様子を見ると、たしかに、まだとても小さいのだった。付き添いの者が、化粧や着付けを大げさにしたので、少し大人びて見えたのだ。几帳の奥に人形のように座っていたから、目にそう映ったのだった。
夕美姫は源氏の衣服に桜の花びらがついているのを見て、おかしがった。
「こんなにたくさんついていますよ」
桜の花びらのようなかわいらしい指が桜の花びらをつまんだ。源氏は、なんだかとても夕美姫のことがいとおしくなった。
「姫君ありがとうございます。それにしても、あなたの指は桜の花びらのように小さいですが、これで琴を弾くことがおできるになるですか」
夕美姫は、頬をふくらませて、顔を赤らめた。
「まあ、少将様ったら、失礼ね。では、ご覧になっていてくださいね。私の弾ける曲はあまりないんですけど」
水海がすぐに琴を用意した。
琴の前まで移動する夕美姫は、ほんとうにまだとても小さかった。