按察

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59

 夜が更けると寒くなってきた。
「火を強くしましょうか」
「ありがとう」
 炎が強くなり、部屋は明るさを増した。水海の瞳が火に照らされて、輝いている。
「あなたの目は、黒ではありませんね」
「どうしたのですか、急に」
「いえ、前から思っていたのです。あなたは、この国の人のようではありません。瞳は茶色い、いや、青に近いですね。肌も抜けるように白い。まるで異国の人みたいだ」
「実は、私の家は、百済から渡ってきたのです」
「やはり、そうですか」
「天智天皇のころ、白村江の戦いで、日本と百済の連合軍は、唐に敗れました」
「そう聞いています」
「百済の王侯貴族は、四散しましたが、私たちの一族は、天智天皇のお計らいで、日本に亡命することができたそうです」
「天智天皇は、この近江に都を造営なされました」
「はい、百済人の多くが、近江京に移り住みました」
「近江京は、あまり長続きしませんでした」
「壬申の乱によって、滅亡しました。天智天皇の第一皇子であらせられました弘文天皇は、天智天皇の弟の大海人皇子に裏切られたのです。弘文天皇についていた私たち近江の百済人たちは、敗戦によって、二度と日の目の当たる舞台に立つことができなくなりました。それで、こうして田舎でひっそりと暮らしているというわけでございます」
「壬申の乱であなたたちが勝っていれば、私は、あなたにお仕えすることに喜びを感じていたでしょう」
「なにをおっしゃいます。もったいないことを。それに、大海人皇子、いえ、天武天皇の血脈は、平安京に遷都したときに、すっかり途絶えてしまいました。天武派から、ふたたび天智派の桓武天皇が、政権を取り戻しなさり、すべてを変えてくださったのです。少将様は、桓武天皇の血を引いているのですから、そういうあなた様にお仕えできる私は、この上ない幸せ者でございます」
「百済にいらっしゃったときは、どのような暮らしをなさっていたのでしょうか?」
「そんな昔のことは、今さらお話ししても、なんにもなりませんが、天智天皇が助けてくださった王子が、私たちの祖先だと聞いております。王子のお母様は、ペルシャの血を引いていたそうです。目が青く、髪が黄色く、肌の白い、見るからに異国の女性であったそうです」
「それで、あなたの目も、髪も、そのように異国の名残があるのですね」
「ほんとうに恥ずかしいですわ。日本で暮らしていると、目立ってしまって、困ります」
「私は、あなたを一目見たときから、不思議な気持ちになりました。なにかとても落ち着くのです」
「少将様の目や髪も、ほんの少しですけど、薄くなっております。真っ黒ではありませんわ。桓武天皇のお母様は百済人でしたから、もしかしたら、あなた様にも、百済の血が流れていらっしゃるのかもしれません。そうだとすると、私に懐かしさをお感じになるのも、うなずけることですわ」
「私は、形ばかりの官位などいりません。このままここに定住して、あなたと毎日いっしょに暮らしたいのです。あなたもそう思いませんか?」
 源氏の目が真剣だった。
 水海はその目に吸いこまれそうになったが、首を振った。
「少将様、そんなことをお考えになるのはいけませんわ。この家の主人は、あなた様のお力がどうしても必要なのです。近江の勢力が強力になれば、あなた様は、宮中で一番の実力者におなりになります。そのときは、私の父もそれなりの者にはなっていると思いますから、私のこともどうにでも取り計らうことがおできになりますわ」
「私はあなたを正妻にしたいのです」
 水海は笑った。
「あなた様が関白におなりになり、私に娘を授けてくださり、その娘が入内したら、きっとそうなりますわ」
「きっとそういたします」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日