按察

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 外は寒かったが、部屋の中は炭が赤く燃え、寝具の中は心地よかった。
 こうしていつまでも衣にくるまって、水海といっしょにいられたらと、源氏は思った。
「しかし、近江京に遷都なされた天智天皇は、まだお若かった。それなのに、まもなく事故でお亡くなりになったとかいう」
「いえ、大海人皇子に殺されたのです」
「それは、確かなのでしょうか?」
「もちろん、証拠など残っておりません。しかし、私たち百済人たちは、きっとそうだと信じているのです。天智天皇が殺されていなければ、きっとまだ近江京は続いていたはずです。少将様、なぜ桓武天皇は、近江に戻らずに、京都になど都を造営なさったのでしょうか? 都としては、まったく便利でないと思うのですが」
「そうですね。たしかに近江の方が交通の便がよいです。東国にも北陸にも行きやすいですし、なにしろ水が豊富ですからね」
「そうですよ。琵琶湖から大阪までだって、淀川ですぐに行けますし、農業や漁業にこれほど適した場所はありませんよ」
「都にはうってつけです」
「少将様もそう思われますか」
 水海は、青い瞳で源氏を見た。
「もちろんです」
「実は、私たち百済人の末裔は、またいつか近江京を再興しようと、計画しているのです」
「近江派の勢力が摂津派と播磨派を圧倒すれば、そういうことは、十分に可能でしょう」
「ええ、近江派が全国を束ね、この近江に再び朝廷を呼び戻すのです」
「しかし、現在の近江派の勢力では、まだそこまでは難しいのではないでしょうか」
「そうなんです。摂津派か播磨派のどちらかと対決する必要があるのでしょうか?」
 源氏は、水海の言葉から、先ほどの寄人との話を思い出した。
「あなただったら、どちらと対決なさいますか?」
「私は、女ですから、そういうことはよくわかりませんけれども、摂津派と対決するのは、危険だと思います」
「強大な勢力ですからね」
「かといって、播磨派と対決したら、こちらの力が十分に弱まったところで、摂津派に滅ぼされてしまいそうですね」
「私もそう思います」
「やはり、このまま様子を見るしかないのでしょうか?」
「それでは、いつまでたっても、近江京を再興することはできませんよ」
「少将様には、よいお考えがございますか?」
 源氏は笑った。
「申し訳ございません。私にもまったくよい考えが浮かびません」
 水海は、とがめるような口調になった。
「少将様にとっては、近江京の再興などということは、あまり関係のないことですからね」
 源氏は、なだめるように言った。
「申し訳ありません。お気に障りましたか? いや、ほんとうに、私にもよい案が出てこなくて、困っているのです。しかし、播磨派と対決しているように見えて、実は、手を結んでいるというやり方も、あり得ると思います」
「どういうことですか?」
「戦いというものは、実際に弓矢を交えるだけでなく、情報戦がかなり重要です。いや、情報戦で有利な状況を作り出し、最低限の弓矢で決着を付けるのが、有能な武将というものです」
「具体的には、どこで決着を付けるのでしょうか?」
「いえ、いえ。まだ、そこまで具体的に考えているわけではございません。情報戦の重要性を考えているだけなのです」
「では、どのような情報戦をすればよいのでしょうか?」
「こういうものは、人々が面白がって聞き、勝手に広めてくれるようなものが、もっとも効果的なのです」
「女たちの世間話ですね」
「夜とぎ話なども、非常に効果的です」
「では、私にそれをせよと?」
「いえ、あなたは教育係です」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日