按察

64
渡殿を吹き抜ける風に、藤の花の香が混じっていた。
部屋の近くに人はいなかった。左大臣が囲碁をするときは、人を遠ざけるのが常だった。それでも囲碁好きの大納言や権大納言と対戦するときは、酒や食べ物を運ばせるために、二、三人は女房を待機させるのであったが、今夜はそれも不要であるとのお達しがあった。察しのよい女房たちは、それで今夜の対戦相手がだれか気づいた。そして、今夜はのんびりとくつろげると喜んだ。
戸が開くと、藤のよい香りが入ってきた。部屋の中は、すでに用意が調っていた。
「酒も少しはいけるのか」
「いいえ、飲めませんわ。どうぞ」
可須水が左大臣の杯を満たす。
「では、あなたが先手をどうぞ」
囲碁では、弱い者が先手を打つことになっている。左大臣は強かった。こう言うのが自然だと思った。
初めは、杯を片手に、気楽に打っていた。途中から、杯を置き、時々持ち上げて、口に運んだ。最後は、杯も箸も手にすることはなく、両目を盤面に釘付けにした。
「負けました」
左大臣は頭を下げた。
可須水は、恐縮して、両手をむやみに振った。
「そんな、たまたまです。左大臣様が花を持たせてくださったんですわ」
そう言われると、左大臣はそういう気分にもなった。なにしろなぜ負けたのか、よくわからなかった。別になにか大きな失敗をしたわけではない。可須水の手が、ことさらよかったわけではない。左大臣が気付かないいくつかの偶然が重なって、いつの間にか可須水が優勢になっていたという気がする。初級者が、運命の神に助けられて、いい手をつかんだとしか思えなかった。可須水に手ごわさは感じなかった。大納言と打つときは、常に圧迫感を感じた。それでも、左大臣が勝つときが多かったが、少しでも気を抜けば、必ず負けるであろうという気がする。気を抜いたのだ。そうだ、気を抜いたのだ。大納言に対する気迫では打たなかった。余裕で勝てるだろうと、高をくくっていたのである。今度は、本気を出そう。左大臣は気持ちを引き締めた。
「もう一局、頼む」
「もう私は、神経が参ってしまいました。とても、もう一局打つ気力が残っておりません」
「まあ、そう言わずに、気楽に打てばよい」
「そこまでおっしゃるのでしたら」
今度も可須水に先手を打たせた。自分が先手を打つということは、自尊心が許さなかった。
「ありがとうございます。それでは」
可須水の手は、左大臣の考えつかないものばかりであった。それはうまい手とはとても言い難いものであった。大丈夫なのかと、心配するような手であった。左大臣は、可須水の急所を次々に攻めた。可須水は、後手後手に回って、見る間に崩壊していくのがわかった。
「左大臣様、こちら、よろしいでしょうか」
可須水は、申し訳なさそうに、石を置いた。奥地に踏み込みすぎて、左大臣の軍勢は味方との連絡を遮断されてしまった。
「なんと、それは痛いな」
左大臣は、善後策として、可須水の急所を急襲しようと思った。しかし、いくら盤面を凝視しても、急所らしい急所はどこにもなかった。反対に、可須水の絶妙な部隊の配置に、左大臣軍の基幹部隊が追い詰められていたことに気付いた。
まもなく左大臣軍は、完全な敗北を喫した。
左大臣はもう本気だった。乗り気でない可須水を口説いて、もう一戦繰り広げた。
しかし、左大臣はなすすべがなかった。
気落ちする左大臣を可須水が慰めていた。
「お疲れになったでしょうから、肩をおもみしましょうか」
左大臣は素直に寝具に横たわり、可須水のされるままになった。
「しかし、少納言は、いったいだれから囲碁を教わったのだ?」
「父ですわ」
「その技をぜひ伝授してくれないか」
「また今度にいたしましょう」
部屋の近くに人はいなかった。左大臣が囲碁をするときは、人を遠ざけるのが常だった。それでも囲碁好きの大納言や権大納言と対戦するときは、酒や食べ物を運ばせるために、二、三人は女房を待機させるのであったが、今夜はそれも不要であるとのお達しがあった。察しのよい女房たちは、それで今夜の対戦相手がだれか気づいた。そして、今夜はのんびりとくつろげると喜んだ。
戸が開くと、藤のよい香りが入ってきた。部屋の中は、すでに用意が調っていた。
「酒も少しはいけるのか」
「いいえ、飲めませんわ。どうぞ」
可須水が左大臣の杯を満たす。
「では、あなたが先手をどうぞ」
囲碁では、弱い者が先手を打つことになっている。左大臣は強かった。こう言うのが自然だと思った。
初めは、杯を片手に、気楽に打っていた。途中から、杯を置き、時々持ち上げて、口に運んだ。最後は、杯も箸も手にすることはなく、両目を盤面に釘付けにした。
「負けました」
左大臣は頭を下げた。
可須水は、恐縮して、両手をむやみに振った。
「そんな、たまたまです。左大臣様が花を持たせてくださったんですわ」
そう言われると、左大臣はそういう気分にもなった。なにしろなぜ負けたのか、よくわからなかった。別になにか大きな失敗をしたわけではない。可須水の手が、ことさらよかったわけではない。左大臣が気付かないいくつかの偶然が重なって、いつの間にか可須水が優勢になっていたという気がする。初級者が、運命の神に助けられて、いい手をつかんだとしか思えなかった。可須水に手ごわさは感じなかった。大納言と打つときは、常に圧迫感を感じた。それでも、左大臣が勝つときが多かったが、少しでも気を抜けば、必ず負けるであろうという気がする。気を抜いたのだ。そうだ、気を抜いたのだ。大納言に対する気迫では打たなかった。余裕で勝てるだろうと、高をくくっていたのである。今度は、本気を出そう。左大臣は気持ちを引き締めた。
「もう一局、頼む」
「もう私は、神経が参ってしまいました。とても、もう一局打つ気力が残っておりません」
「まあ、そう言わずに、気楽に打てばよい」
「そこまでおっしゃるのでしたら」
今度も可須水に先手を打たせた。自分が先手を打つということは、自尊心が許さなかった。
「ありがとうございます。それでは」
可須水の手は、左大臣の考えつかないものばかりであった。それはうまい手とはとても言い難いものであった。大丈夫なのかと、心配するような手であった。左大臣は、可須水の急所を次々に攻めた。可須水は、後手後手に回って、見る間に崩壊していくのがわかった。
「左大臣様、こちら、よろしいでしょうか」
可須水は、申し訳なさそうに、石を置いた。奥地に踏み込みすぎて、左大臣の軍勢は味方との連絡を遮断されてしまった。
「なんと、それは痛いな」
左大臣は、善後策として、可須水の急所を急襲しようと思った。しかし、いくら盤面を凝視しても、急所らしい急所はどこにもなかった。反対に、可須水の絶妙な部隊の配置に、左大臣軍の基幹部隊が追い詰められていたことに気付いた。
まもなく左大臣軍は、完全な敗北を喫した。
左大臣はもう本気だった。乗り気でない可須水を口説いて、もう一戦繰り広げた。
しかし、左大臣はなすすべがなかった。
気落ちする左大臣を可須水が慰めていた。
「お疲れになったでしょうから、肩をおもみしましょうか」
左大臣は素直に寝具に横たわり、可須水のされるままになった。
「しかし、少納言は、いったいだれから囲碁を教わったのだ?」
「父ですわ」
「その技をぜひ伝授してくれないか」
「また今度にいたしましょう」