按察
65
遣水は木陰を流れ、呉竹の葉が揺れていた。可須水は卯の花の垣根に寄りかかるようにして、木のうろからなにかを取り出し、袂に入れた。そのまま卯の花をいくつか摘み、それを室内に運び、手際よく活けた。
「あら、きれいな卯の花ね」
「少納言は、お庭の花をまめに活けるわね」
左大臣の女房たちが、花の周りに集まった。
「ねえ、今夜も囲碁を打つの?」
「そうなんですよ。申し訳ございません」
「なんで、あやまるの? 助かるわよ。毎晩打ってほしいほどだわ」
「そうよ、あなたが囲碁を打ってくれれば、私たち、夜がほんとうに楽なんですもの」
女房たちが笑った。
可須水は、困りきった顔をしていたが、内心では喜んでいた。左大臣は、可須水から離れられなくなりつつあった。
年齢的に、もう北の方は、左大臣と夜を過ごすことはなくなっていた。どこの邸宅でも同じようなものである。どこの邸宅でも、主は、若い側室か、部屋の女房と夜を過ごすのだった。だから、どこの北の方も、たいがいは機嫌が悪かった。しかし、左大臣の北の方は、最近機嫌がよくなってきた。可須水の兄という律師が、経文を唱えてくれるのである。これで、北の方に取りついている悪い霊がすっかり消え、気分がよくなったのである。律師が言うには、悪霊というものは、加持祈祷をやめると、また、すぐに取りつくものなのだそうだ。そこで、北の方は、ほとんど毎晩、律師に加持祈祷をしてもらうことになった。律師は、加持祈祷をするだけでなく、その後に、北の方の肩を叩いたり、腰をもんだりもしてくれた。体を柔らかくすると、物の怪が体に入り込みにくいのだそうだ。それがどうしてであるか、律師は詳しく説明してくれたが、北の方は、今ではもうよく覚えていなかった。律師は、非常に美しい顔をしていたこともあり、全身をもみほぐしてもらうと、二十年ぐらい若返ったような気分になった。そして、律師は、常に優しかったから、北の方の人生で、最も好ましい男性と思うようになったのであった。粗野で女心のわからない左大臣など、比べ物にならなかったのである。北の方は、人生で一番楽しい時期がやってきたと思った。そういうわけなので、左大臣が、可須水と囲碁をしようが、なにをしようが、まったく気にならないのであった。
そういう思いは、左大臣の部屋にいる女房たちにも、やや共通するところがあった。
左大臣は、北の方や側室たちが年を重ねるにつれて、その部屋に足を向けることが少なくなっていった。また、妻というものは、その立場を配慮しなければならないので、なかなか厄介なものだと思うようになった。その点部屋付きの女房というものは、そういう配慮がいらないうえに、なり手に困らなかった。摂津派が次から次へと若い女房を連れてきたのである。女房たちは、左大臣の世話をするのがつらいこともあったが、親や親類の出世がかかっているので、たいがいのことは我慢した。なにしろ相手は摂関家で最も有望な人物なのである。ところが、最近は左大臣の慰め役は、可須水が一手に引き受けてくれていた。すると、女房たちは、安心して好きなことをできるようになった。なにしろ左大臣邸にないものはなにもない。楽器、物語草紙、娯楽品は、なんでもそろっている。恋人を自分の局に引っ張り込んで楽しむ女房まで出てくる始末である。
可須水は、摂津派や兄の律師と協力しながら、左大臣邸をこういう状況に変えていった。可須水が左大臣と二人だけで毎晩過ごすことを気にかける者は、もうだれもいなかった。可須水と兄の律師は摂津派に属しているが、実は近江派の指示で動いていた。近江派の領袖である大納言に仕える水海という女房が、時々連絡をしていた。可須水は、水海に窮状を救ってもらったことがあるので、自分の一生を彼女のために捧げようと誓っていた。もっとも、可須水は、水海に会ったことはないし、名前も知らないのであったが。
一人になると、可須水は袂から紙片を取り出した。
可須水は、紙片を香炉にくべると、左大臣の部屋に行く用意を始めた。
「あら、きれいな卯の花ね」
「少納言は、お庭の花をまめに活けるわね」
左大臣の女房たちが、花の周りに集まった。
「ねえ、今夜も囲碁を打つの?」
「そうなんですよ。申し訳ございません」
「なんで、あやまるの? 助かるわよ。毎晩打ってほしいほどだわ」
「そうよ、あなたが囲碁を打ってくれれば、私たち、夜がほんとうに楽なんですもの」
女房たちが笑った。
可須水は、困りきった顔をしていたが、内心では喜んでいた。左大臣は、可須水から離れられなくなりつつあった。
年齢的に、もう北の方は、左大臣と夜を過ごすことはなくなっていた。どこの邸宅でも同じようなものである。どこの邸宅でも、主は、若い側室か、部屋の女房と夜を過ごすのだった。だから、どこの北の方も、たいがいは機嫌が悪かった。しかし、左大臣の北の方は、最近機嫌がよくなってきた。可須水の兄という律師が、経文を唱えてくれるのである。これで、北の方に取りついている悪い霊がすっかり消え、気分がよくなったのである。律師が言うには、悪霊というものは、加持祈祷をやめると、また、すぐに取りつくものなのだそうだ。そこで、北の方は、ほとんど毎晩、律師に加持祈祷をしてもらうことになった。律師は、加持祈祷をするだけでなく、その後に、北の方の肩を叩いたり、腰をもんだりもしてくれた。体を柔らかくすると、物の怪が体に入り込みにくいのだそうだ。それがどうしてであるか、律師は詳しく説明してくれたが、北の方は、今ではもうよく覚えていなかった。律師は、非常に美しい顔をしていたこともあり、全身をもみほぐしてもらうと、二十年ぐらい若返ったような気分になった。そして、律師は、常に優しかったから、北の方の人生で、最も好ましい男性と思うようになったのであった。粗野で女心のわからない左大臣など、比べ物にならなかったのである。北の方は、人生で一番楽しい時期がやってきたと思った。そういうわけなので、左大臣が、可須水と囲碁をしようが、なにをしようが、まったく気にならないのであった。
そういう思いは、左大臣の部屋にいる女房たちにも、やや共通するところがあった。
左大臣は、北の方や側室たちが年を重ねるにつれて、その部屋に足を向けることが少なくなっていった。また、妻というものは、その立場を配慮しなければならないので、なかなか厄介なものだと思うようになった。その点部屋付きの女房というものは、そういう配慮がいらないうえに、なり手に困らなかった。摂津派が次から次へと若い女房を連れてきたのである。女房たちは、左大臣の世話をするのがつらいこともあったが、親や親類の出世がかかっているので、たいがいのことは我慢した。なにしろ相手は摂関家で最も有望な人物なのである。ところが、最近は左大臣の慰め役は、可須水が一手に引き受けてくれていた。すると、女房たちは、安心して好きなことをできるようになった。なにしろ左大臣邸にないものはなにもない。楽器、物語草紙、娯楽品は、なんでもそろっている。恋人を自分の局に引っ張り込んで楽しむ女房まで出てくる始末である。
可須水は、摂津派や兄の律師と協力しながら、左大臣邸をこういう状況に変えていった。可須水が左大臣と二人だけで毎晩過ごすことを気にかける者は、もうだれもいなかった。可須水と兄の律師は摂津派に属しているが、実は近江派の指示で動いていた。近江派の領袖である大納言に仕える水海という女房が、時々連絡をしていた。可須水は、水海に窮状を救ってもらったことがあるので、自分の一生を彼女のために捧げようと誓っていた。もっとも、可須水は、水海に会ったことはないし、名前も知らないのであったが。
一人になると、可須水は袂から紙片を取り出した。
可須水は、紙片を香炉にくべると、左大臣の部屋に行く用意を始めた。