按察

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66

 橘の花を揺らして、牛車が車宿りに止まった。
 二人の女房が車から降りると、左大臣邸の女房たちは、応接のための部屋に通した。二人とも如才なく挨拶したが、そのうちの一人は木いちごという名で、備前守の娘だった。人々は、木いちごを備前と呼んだ。彼女が、大納言の指示で動いていることを知っている者は、だれもいない。
「それでは、少将様が、うちの中の君を」
 北の方付きの女房は驚いた。
「ええ、それはもう、ぜひにということでございます。こちらに、お手紙がございますので、どうかご返事をいただきますよう、お願い申し上げます」
「とにかく、お伝えいたしまして、ご返事いたしたいと存じます。しばらく、お待ちいただけますでしょうか」
 女房は、まず北の方に相談した。少将は、権大納言の長男である。権大納言は、左大臣の弟で、囲碁仲間として、この屋敷にもよく来る。それに、こういうことは、すでに左大臣から聞いていた。
「まずは、殿に相談なさい」
 北の方は、ことの順序を踏まえた。
「かしこまりました」
 女房は、左大臣の部屋に行く。可須水が出てくる。
「どうかなさいましたか」
 女房は事情を話す。可須水が左大臣に伝えると、すでに承知しているので、返事をせよと答える。可須水が北の方付きの女房にそれを伝えると、木いちごの待っている部屋に戻ろうとした。
「待て、歌はだれが詠むのか?」
 左大臣が女房を呼び止めた。
「それなんですが、どうも、私どもは、歌のうまい女房が少ないもので」
 私どもとは、北の方付きの女房たちのことだ。
「中の君のところは?」
「いえ、中の君のところも、歌が得意な者は、あまりいませんで」
「じゃあ、少納言を連れて行きなさい」
「ありがとうございます」
 女房は喜んだ。可須水に詠んでもらえると、いつもうまくいくのである。
 北の方付きの女房が、可須水を連れて、木いちごの待っている部屋に行こうとすると、可須水が言った。
「中の君にお話してからの方が、よいと思うのですが」
 女房は、口をぽかんとあけた。
「そうでした。なぜ、それに気が付かなかったのでしょう。私は、大馬鹿者ですね」
「そんなことありませんよ。こういう一大事になれば、だれだって慌てますから」
「そうですよね。ああ、少納言がいっしょでよかった」
 二人は、中の君の部屋に行った。中の君付きの女房たちが、こういうことをなぜ自分たちに真っ先に知らせなかったのかと怒り出す前に、可須水がうまく話をした。中の君の女房たちは、別に怒りもしなかった。むしろ、自分たちが先に対応せずに済んだので、ほっとしている。彼女たちと可須水が、中の君に話をすると、恥ずかしさで顔を真っ赤にした。
 権大納言の息子の少将は、美男子だった。そういう噂は、中の君の年頃の娘は、みんな知っているのである。しかし、中の君は、弟の頭弁の方が、もっと美男子であることも知っていた。もちろん、だれでも知っていることである。姉の宣耀殿女御と仲がよく、この二人が、京中で最も琴の演奏が上手であることは、だれもが知っている。しかし、中の君は、頭弁がいいとはもちろん言えない。そんなことを言って断ったら、父や母がどれほど激しく怒るかは、火を見るよりも明らかだった。
「では、承諾ということでよろしいですね」
 中の君は、小さくうなずいた。
「それでは少納言、承諾の歌を」
「待って、初めてのときは、お手紙をそのままお返しするものなのです」
 可須水は、贈答歌の作法を説いた。
 女房たちも、そう言えば、そうですね、どうも慌ててしまいまして、と口々に言った。
 可須水は、木いちごの前に現れ、受け取った手紙をそのまま返した。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日