按察
67
卯の花を揺らして、牛車が車宿りに止まった。
二人の女房が車から降りると、少将の部屋に急いだ。
少将は僧都と話をしていた。
「計画は進んでいますか」
「いま備前が報告するはずです」
木いちごたちは少将の部屋の前で膝をつき、声をかけた。
「失礼いたします」
少将が僧都に小声で言った。
「備前です」
少将は戸の方を向いた。
「入れ」
木いちごたちが中に入り、僧都に挨拶をした。左大臣家の中の君に渡し、そのまま持ち帰ってきた手紙を、少将に渡した。
「ご苦労だった。もう、下がってよい」
「失礼いたしました」
木いちごたちが部屋から出ると、僧都が訊いた。
「あの者たちは、大丈夫ですか?」
「備前の方は、しっかりしています。使えると思います。備前にはここに残らせようとしましたが、もう一人の方に勘ぐられないように、二人とも下がらせたのです。しかし、備前は、また、きっと参りますよ」
「しかし、あなたは、大胆な方ですね」
「そうですか?」
「それはそうです。私がこちらへ来たことが左大臣に知れたら、一大事ですよ」
「そうですね」
少将は、あまり一大事だという顔ではない。
「このあとは、なるべくこういうことはしないようにしましょう」
「しかし、私は、直接お目にかからないと、話ができない人間ですから」
少将は、僧都に酒を注いだ。
「これは、どうも。あなたもどうですか?」
「いえ、私は結構です」
「あ、そうでしたね。しかし、それがいちばんです。昔から、ほんとうに仕事のできる人は、酒は飲みませんでしたよ」
「お褒めにあずかり、恐縮です」
少将は、非常に用心深かった。酒を飲まないだけでなく、身辺は常に身軽である。必要以上に物を持たず、なにかを人にひけらかしたりすることは、まったくなかった。妻さえ持っていなかった。母はいたが、数年前に死に別れたあとは、気ままに一人住まいしているのである。従者や女房たちもそれほど多くはなかった。木いちごは、妻ではないが、小さな頃からこの家で暮らしてきた乳母子であり、少将はだれよりも信頼し、家内の切り盛りをさせていた。
少将は、用心深いが、人から見ると大胆に見える振る舞いをすることがあった。しかし、それは、そう見えるだけであって、実際には、用意周到な計画に基づいて、そのような行動をとっていた。
少将は、宣耀殿女御の兄であった。宣耀殿女御は弟と仲がよく、小さな頃から学問や琴の演奏で競い合って、同じ家で成長していったが、少将は、腹違いの兄であり、ほとんど顔を合わせたことがないので、宣耀殿女御は、この兄に対して、肉親としての感情はあまり持っていなかった。
その少将は、大納言に声をかけられ、いつしか近江派の一員になっていた。大納言は、先ごろ重大な決断をした。それは、近江派が摂津派から持ちかけられた話に同意したことであった。摂津派は、東国の大半を完全に手中に収めて以来、勢力が著しく強大になった。奈良の王朝の後継である近江派は、東国の取り込みに後れを取って以来、かつて全国に恐れられ、忠誠を誓わせた威光には、陰りが差し、いつ摂津派に息の根を止められるかも知れない趨勢にさえなってきている。日本を実質支配するもう一つの巨大勢力が、僧都の統治する播磨派であるが、これは、近江派による大和朝廷樹立以前に、日本の大部分を支配下に収めていた九州を中心にした西国勢であった。平安になり、近江派が徐々に衰退し、摂津派が東国攻略に力を集中している隙を狙うようにして、近年非常に勢力を拡大してきたのであった。その播磨派を撃退すべく、摂津派は近江派に同盟を持ち掛けたのであった。大納言の決断は、少将にも重くのしかかってきた
二人の女房が車から降りると、少将の部屋に急いだ。
少将は僧都と話をしていた。
「計画は進んでいますか」
「いま備前が報告するはずです」
木いちごたちは少将の部屋の前で膝をつき、声をかけた。
「失礼いたします」
少将が僧都に小声で言った。
「備前です」
少将は戸の方を向いた。
「入れ」
木いちごたちが中に入り、僧都に挨拶をした。左大臣家の中の君に渡し、そのまま持ち帰ってきた手紙を、少将に渡した。
「ご苦労だった。もう、下がってよい」
「失礼いたしました」
木いちごたちが部屋から出ると、僧都が訊いた。
「あの者たちは、大丈夫ですか?」
「備前の方は、しっかりしています。使えると思います。備前にはここに残らせようとしましたが、もう一人の方に勘ぐられないように、二人とも下がらせたのです。しかし、備前は、また、きっと参りますよ」
「しかし、あなたは、大胆な方ですね」
「そうですか?」
「それはそうです。私がこちらへ来たことが左大臣に知れたら、一大事ですよ」
「そうですね」
少将は、あまり一大事だという顔ではない。
「このあとは、なるべくこういうことはしないようにしましょう」
「しかし、私は、直接お目にかからないと、話ができない人間ですから」
少将は、僧都に酒を注いだ。
「これは、どうも。あなたもどうですか?」
「いえ、私は結構です」
「あ、そうでしたね。しかし、それがいちばんです。昔から、ほんとうに仕事のできる人は、酒は飲みませんでしたよ」
「お褒めにあずかり、恐縮です」
少将は、非常に用心深かった。酒を飲まないだけでなく、身辺は常に身軽である。必要以上に物を持たず、なにかを人にひけらかしたりすることは、まったくなかった。妻さえ持っていなかった。母はいたが、数年前に死に別れたあとは、気ままに一人住まいしているのである。従者や女房たちもそれほど多くはなかった。木いちごは、妻ではないが、小さな頃からこの家で暮らしてきた乳母子であり、少将はだれよりも信頼し、家内の切り盛りをさせていた。
少将は、用心深いが、人から見ると大胆に見える振る舞いをすることがあった。しかし、それは、そう見えるだけであって、実際には、用意周到な計画に基づいて、そのような行動をとっていた。
少将は、宣耀殿女御の兄であった。宣耀殿女御は弟と仲がよく、小さな頃から学問や琴の演奏で競い合って、同じ家で成長していったが、少将は、腹違いの兄であり、ほとんど顔を合わせたことがないので、宣耀殿女御は、この兄に対して、肉親としての感情はあまり持っていなかった。
その少将は、大納言に声をかけられ、いつしか近江派の一員になっていた。大納言は、先ごろ重大な決断をした。それは、近江派が摂津派から持ちかけられた話に同意したことであった。摂津派は、東国の大半を完全に手中に収めて以来、勢力が著しく強大になった。奈良の王朝の後継である近江派は、東国の取り込みに後れを取って以来、かつて全国に恐れられ、忠誠を誓わせた威光には、陰りが差し、いつ摂津派に息の根を止められるかも知れない趨勢にさえなってきている。日本を実質支配するもう一つの巨大勢力が、僧都の統治する播磨派であるが、これは、近江派による大和朝廷樹立以前に、日本の大部分を支配下に収めていた九州を中心にした西国勢であった。平安になり、近江派が徐々に衰退し、摂津派が東国攻略に力を集中している隙を狙うようにして、近年非常に勢力を拡大してきたのであった。その播磨派を撃退すべく、摂津派は近江派に同盟を持ち掛けたのであった。大納言の決断は、少将にも重くのしかかってきた