按察

按察
prev

69

 御簾越しに風が入り、卯の花が揺れた。まるで二人の笑い声で揺れているようだった。
「ところで、備前、左大臣宅はどうだった?」
 それまでなにも言わずに、かしこまって控えていた木いちごが口を開いた。
「はい。順調でございます」
 この返事で、二人は状況を理解した。
 左大臣は病気を持っていた。木いちごが、人を使い、薬草を定期的に届けていた。その薬草は乾燥して煎じると、いい香りの飲み物になった。左大臣邸にいる摂津派の女房が、その薬草を煎じて飲み物を作った。料理の上手な女房である。児鹿夏(こかげ)といった。信濃と呼ばれている。摂津派であるが、実は近江派の忍びである。児鹿夏に薬草を渡すのは、可須水である。可須水に薬草を届けるのは、木いちごの使いである。使いの者は、夜間に築地の穴からもぐりこんで、植え込みに薬草を置く。築地の穴には詰め物がしてあり、塞いでしまうと、だれも穴があるとは気づかない。もっとも、築地の周辺を清掃する者も、植え込みの周辺を清掃する者も、近江派の忍びであったから、左大臣邸に住むだれもが、そんな場所には近づくこともないのであった。今や左大臣邸の従者たちや女房たちを束ねる役目を担う可須水は、彼らの人選もつかさどっていたから、潜入している近江派は、すでに多数派を形成していた。しかも、邸内では、彼らは忠実な摂津派として、左大臣からも、摂津の武士たちからも、厚い信頼がおかれていた。近江派は、小さなころから徹底的な教育を施し、貴族たちの邸宅に人材を供給した。彼らは、優秀で、気配りができるので、どこの邸宅でも重宝がられ、特に今勢いのある摂津派の摂関家では、奪い合いのようにして、彼らが求められた。彼らは、直接腕力によって摂津派に対抗することは、基本的にない。重大な局面が訪れるときまでは、彼らは、まったく目的とは関係のないと思えるようなことしかしていなかった。人間関係を作ったり、情報交換をしたり、摂関家の利益になるような経営をしたり、政策上の助言をしたり、主人たちの喜ぶことばかりした。しかし、それらは、すべてが合わさると、全体としては、摂津派の動きを封じるものになるように、上層部は計略していた。木いちごと可須水と児鹿夏の連携で、薬草を左大臣邸に供給することは、そのほんの一例である。この薬草は左大臣家に喜ばれた。特に左大臣が喜んで摂取した。もちろん、これまでの長い月日の中で、左大臣がもっとも好む薬草を組織的に研究した結果ではあったが、これは非常に効果的であった。普通の人が摂取しても、なにも問題がない。むしろ、美味であり、健康にもよい。しかし、ある体質の人が、頻繁に摂取すると、内臓に石ができるのだった。左大臣は腹に石ができて、このごろは苦痛を訴えることが多くなった。しかし、まさかこの薬草のせいだとは思っていない。健康にいい薬草だと信じ、周囲もこの薬草を摂取してから、非常に体の調子がよいと言って、もう左大臣邸にはなくてはならないものになっているので、やめるなどということは、考えられないのである。
 この薬草は、そのへんの市場でもよく売られている葉物野菜によく似ていて、左大臣家のだれも、区別がつけられなかった。その葉物野菜は、何日かに一度、商人が左大臣家に運んできた。食材を管理する児鹿夏は、その葉物野菜と可須水から受け取った薬草をすり替える。可須水は、葉物野菜を受け取ると、植え込みに置く。木いちごの使っている者が、植え込みから葉物野菜を取ると、その代わりに薬草を置く。葉物野菜は、木いちごが、少将邸の料理に使わせる。このようなことが長い月日行われ、左大臣の体には元に戻しようのない変化が現れたのである。上層部は、この変化をよしとして、さらにこのまま継続するよう、木いちごに命じた。木いちごに命じたのは、水海である。水海は大納言といっしょにこの作戦を遂行している。大納言はその作戦に、全面的な少将の協力を取りつけた。少将も大変な企画力があり、この作戦がこれほど順調にいっているのは、少将の力が不可欠であった。そして、少将に非常に有意義な助言をし続けたのが、僧都であった。
 二人は、木いちごの仕事に満足していた。
next

【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日