按察
71
卯の花に裾を翻した風が当たったのか、小刻みに揺れている。木いちごが二、三歩いざり出て、少将に身を乗り出すようにした。
「いえ、少将様は、これから上人(うえびと)として、宮中で交際なさるわけでございますから、妻を一人も持たないということは、きっと不都合でございましょう。左大臣様の姫君とのご縁がおありになるということは、願ってもないことでございます。この機会を無駄になさいますのは、少将様のためによろしくないことでございます。今一度よくお考え下さいませ」
「しかし、私のような取りに足りない者を左大臣家が婿にしようというのは、少々不可解である。なにかわけがあるのではないか。その姫君に問題があるとか」
「いえ、そのようなことはございません。姫君はまったくの健康なお体でありまして、また、これまで問題になるような行動を起こしたこともございません」
「では、なぜ、天皇や皇太子に入内させずに、私のような将来有望とは思えないような男に、大事な娘を預けようと言うのだろうか」
「私が、可須水から聞いたのは、そこまででございますが、ほんとうによい縁談だと思います」
それまで二人のやりとりを聞いていた僧都が、口をはさんだ。
「私には左大臣の考えが、少しわかるような気がします」
少将は僧都の方に体を向けた。
「それは、どのようなことでしょうか」
「大納言です」
「大納言ですか」
「そうです。大納言の近江派は、摂津派と同盟を組むことに賛同しました。それで、この世の中は、まったく変わりました。大納言が摂津派と組んで、私の播磨派を崩壊させれば、摂津派にとって、これ以上喜ばしいことはありません」
「それは、そうです」
「左大臣は、今、世の中が自分の思うままになるので、得意になっているでしょう。大君(おおいぎみ)は、帝に入内しました。大君の産んだ一宮は皇太子になり、二宮も親王宣下しました。大納言は二宮に娘を入内させたので、近江派と摂津派の関係はいっそう強固なものになりました。左大臣は大納言を非常に信用しています。左大臣だけではありません。北の方も皇后になった大君も、大納言を非常に信用しています。帝も大納言を慕っています。帝は大納言が皇位を継承できず、自分が即位したことを、とても気にしています。ほんとうは自分ではなく、大納言が即位すべきであったとよく口になさると聞いております。大納言に疑いが持たれた当初は、近江派と摂津派は非常に険悪な関係になっていました。しかし、一宮が皇太子となり、大納言が摂津派と手を結んだ今は、もうなにも心配はないとして、左大臣は大納言への思いを、昔に戻しました。その近江派の大納言が一番頼りにしているのが、あなたなのですよ、少将様」
「しかし、それは表のこと。内実は、その正反対です。大納言は、ほんとうは播磨派と組んで、摂津派を壊滅しようと思っている。大納言は、そのために私を近江派に引き入れた。私は、だれにも見えないところで、播磨派と連絡をつけるために、うってつけの人間のようですからね」
「あなたは、だれよりも頼もしいお方です」
「それはかまわないのです。この策略に失敗して、私一人がどうなろうと」
「そのような目に合わせはいたしませんよ」
「ありがとうございます。ただ」
「ただ」
「左大臣家の中の君を巻き込むのは気の毒です」
「いいえ、中の君はあなた様とご結婚なされば、きっと幸せになりましょう」
木いちごは、顔には出さなかったが、僧都のその言葉を聞いて、やはり寂しい気持ちになった。しかし、個人的な気持ちでこの件を考えるべきではないと思いなおし、気持ちを強くした。
「そうです。ですから、また、歌をお願いいたします」
逢ふことは雲居のはるか音羽山音のみ聞きて恋ひわたりけり
「いえ、少将様は、これから上人(うえびと)として、宮中で交際なさるわけでございますから、妻を一人も持たないということは、きっと不都合でございましょう。左大臣様の姫君とのご縁がおありになるということは、願ってもないことでございます。この機会を無駄になさいますのは、少将様のためによろしくないことでございます。今一度よくお考え下さいませ」
「しかし、私のような取りに足りない者を左大臣家が婿にしようというのは、少々不可解である。なにかわけがあるのではないか。その姫君に問題があるとか」
「いえ、そのようなことはございません。姫君はまったくの健康なお体でありまして、また、これまで問題になるような行動を起こしたこともございません」
「では、なぜ、天皇や皇太子に入内させずに、私のような将来有望とは思えないような男に、大事な娘を預けようと言うのだろうか」
「私が、可須水から聞いたのは、そこまででございますが、ほんとうによい縁談だと思います」
それまで二人のやりとりを聞いていた僧都が、口をはさんだ。
「私には左大臣の考えが、少しわかるような気がします」
少将は僧都の方に体を向けた。
「それは、どのようなことでしょうか」
「大納言です」
「大納言ですか」
「そうです。大納言の近江派は、摂津派と同盟を組むことに賛同しました。それで、この世の中は、まったく変わりました。大納言が摂津派と組んで、私の播磨派を崩壊させれば、摂津派にとって、これ以上喜ばしいことはありません」
「それは、そうです」
「左大臣は、今、世の中が自分の思うままになるので、得意になっているでしょう。大君(おおいぎみ)は、帝に入内しました。大君の産んだ一宮は皇太子になり、二宮も親王宣下しました。大納言は二宮に娘を入内させたので、近江派と摂津派の関係はいっそう強固なものになりました。左大臣は大納言を非常に信用しています。左大臣だけではありません。北の方も皇后になった大君も、大納言を非常に信用しています。帝も大納言を慕っています。帝は大納言が皇位を継承できず、自分が即位したことを、とても気にしています。ほんとうは自分ではなく、大納言が即位すべきであったとよく口になさると聞いております。大納言に疑いが持たれた当初は、近江派と摂津派は非常に険悪な関係になっていました。しかし、一宮が皇太子となり、大納言が摂津派と手を結んだ今は、もうなにも心配はないとして、左大臣は大納言への思いを、昔に戻しました。その近江派の大納言が一番頼りにしているのが、あなたなのですよ、少将様」
「しかし、それは表のこと。内実は、その正反対です。大納言は、ほんとうは播磨派と組んで、摂津派を壊滅しようと思っている。大納言は、そのために私を近江派に引き入れた。私は、だれにも見えないところで、播磨派と連絡をつけるために、うってつけの人間のようですからね」
「あなたは、だれよりも頼もしいお方です」
「それはかまわないのです。この策略に失敗して、私一人がどうなろうと」
「そのような目に合わせはいたしませんよ」
「ありがとうございます。ただ」
「ただ」
「左大臣家の中の君を巻き込むのは気の毒です」
「いいえ、中の君はあなた様とご結婚なされば、きっと幸せになりましょう」
木いちごは、顔には出さなかったが、僧都のその言葉を聞いて、やはり寂しい気持ちになった。しかし、個人的な気持ちでこの件を考えるべきではないと思いなおし、気持ちを強くした。
「そうです。ですから、また、歌をお願いいたします」
逢ふことは雲居のはるか音羽山音のみ聞きて恋ひわたりけり