按察
73
卯の花の横に男が立っていた。牛の世話をするようないでたちをしている。そして、牛に水を与えるための桶のようなものを抱えている。
庭先で洗濯物を干していた若い女が、それに気づいた。男は、微笑して女を見た。女はぱっと笑顔を咲かせた。
「僧都様、お待ち申し上げておりました」
「いつも、申し訳ありません」
「なにをおっしゃいますか、私どもは僧都様のおかげでこうしてなんの心配もなしに暮らしていけるのでございます。もう、すっかり用意が整っております。どうぞ、こちらへ」
女が僧都を寺の中に入れると、すぐに、僧都と同じいでたちの男が現れた。桶には水がたっぷり入っている。男は、なんのためらいも持たずに、大路に歩いていった。
僧都が入っていった庫裏(くり)には、武士たちが待機していた。僧都の顔を見ると、みな床に伏せて、丁重に挨拶をした。
「お前たちもご苦労さんだね。悪いがこれからいっしょについてきてもらうよ」
「ハッ」
武士たちは声をそろえて、応じた。
「ほんとうに、お食事はよろしいのですか」
手早く着替えを済ませた僧都が庭に出ようとすると、先ほどの若い女が心配そうに訊いた。
「どうも、ありがとう。しかし、少将のところでたくさんいただいてしまったから、もう、なにも入りませんよ」
「それでは、道中で必要になりましたら、これをお召し上がりください」
女は藁できれいに編んだ袋を、恭しく差し出した。
「これは?」
「煎り豆が少しばかり入ってございます」
「これは、これは、結構なものを、ほんとうにすみませんね。お気遣いいただき」
「とんでもございません。それでは、お気をつけて、お出かけくださいませ」
「うむ。それでは、また、お会いいたしましょう」
「お気をつけて」
女は深々と頭を下げた。
僧都は五人の武士と外へ歩いた。庭に馬の用意ができていた。
六頭の馬は、一斉に走った。大路を通ることはほとんどない。迷路のような京の小路、小路を、なんの迷いもなく駆け抜ける。検非違使が検問をしている大路がいくつかあった。しかし、だれも六頭の馬には気づかなかった。
二条の少将邸から九条の左大臣邸まで行く牛車に、僧都は牛の世話係として徒歩でついていった。先ほどの検非違使の検問があったのは、四条あたりだった。その情報も事前に知っていた。播磨派の武士たちは、京のあちらこちらに、町人、農民、僧侶として、普通に生活している。播磨派の領袖である僧都は、なにかがあると彼らに手助けしてもらう。彼らは、普段僧都の配下に守られているから、喜んでその手伝いをする。彼らの中にも敵に寝返る者がいないとは限らない。だから、僧都は、彼らに手伝ってもらうときには、配下の武士たちを使って、事前に探りを入れておく。安全度ができるだけ高い協力者を、できるだけたくさん用意できることも、天下を取ろうと考えている者には必要なのだった。
四条あたりから馬を飛ばしていた僧都たちは、三条も過ぎ、二条も過ぎ、一条も過ぎていった。そして、紫野あたりの寺まで来ると、速度を落として、ゆっくりと境内に入っていった。ここには、僧都が京で拠点にしている寺の一つがあった。
僧都が庫裏に入り、ようやくくつろいでいると、武士の一人が言った。
「しかし、今回は、少し危険でしたね」
「そうですね。しばらく、少将のところへは行かないことにしましょう」
「それがよろしいかと存じます」
「収穫もありましたよ」
「それは?」
「女房の姿で私が少将邸に出入りすることを、摂津派に漏らした者がいるようです」
「はい。それは、今調べているところです」
「こちらが動かなければ、こういう情報はわからないものです」
「危険ですが、ある程度動く必要はあると思います」
庭先で洗濯物を干していた若い女が、それに気づいた。男は、微笑して女を見た。女はぱっと笑顔を咲かせた。
「僧都様、お待ち申し上げておりました」
「いつも、申し訳ありません」
「なにをおっしゃいますか、私どもは僧都様のおかげでこうしてなんの心配もなしに暮らしていけるのでございます。もう、すっかり用意が整っております。どうぞ、こちらへ」
女が僧都を寺の中に入れると、すぐに、僧都と同じいでたちの男が現れた。桶には水がたっぷり入っている。男は、なんのためらいも持たずに、大路に歩いていった。
僧都が入っていった庫裏(くり)には、武士たちが待機していた。僧都の顔を見ると、みな床に伏せて、丁重に挨拶をした。
「お前たちもご苦労さんだね。悪いがこれからいっしょについてきてもらうよ」
「ハッ」
武士たちは声をそろえて、応じた。
「ほんとうに、お食事はよろしいのですか」
手早く着替えを済ませた僧都が庭に出ようとすると、先ほどの若い女が心配そうに訊いた。
「どうも、ありがとう。しかし、少将のところでたくさんいただいてしまったから、もう、なにも入りませんよ」
「それでは、道中で必要になりましたら、これをお召し上がりください」
女は藁できれいに編んだ袋を、恭しく差し出した。
「これは?」
「煎り豆が少しばかり入ってございます」
「これは、これは、結構なものを、ほんとうにすみませんね。お気遣いいただき」
「とんでもございません。それでは、お気をつけて、お出かけくださいませ」
「うむ。それでは、また、お会いいたしましょう」
「お気をつけて」
女は深々と頭を下げた。
僧都は五人の武士と外へ歩いた。庭に馬の用意ができていた。
六頭の馬は、一斉に走った。大路を通ることはほとんどない。迷路のような京の小路、小路を、なんの迷いもなく駆け抜ける。検非違使が検問をしている大路がいくつかあった。しかし、だれも六頭の馬には気づかなかった。
二条の少将邸から九条の左大臣邸まで行く牛車に、僧都は牛の世話係として徒歩でついていった。先ほどの検非違使の検問があったのは、四条あたりだった。その情報も事前に知っていた。播磨派の武士たちは、京のあちらこちらに、町人、農民、僧侶として、普通に生活している。播磨派の領袖である僧都は、なにかがあると彼らに手助けしてもらう。彼らは、普段僧都の配下に守られているから、喜んでその手伝いをする。彼らの中にも敵に寝返る者がいないとは限らない。だから、僧都は、彼らに手伝ってもらうときには、配下の武士たちを使って、事前に探りを入れておく。安全度ができるだけ高い協力者を、できるだけたくさん用意できることも、天下を取ろうと考えている者には必要なのだった。
四条あたりから馬を飛ばしていた僧都たちは、三条も過ぎ、二条も過ぎ、一条も過ぎていった。そして、紫野あたりの寺まで来ると、速度を落として、ゆっくりと境内に入っていった。ここには、僧都が京で拠点にしている寺の一つがあった。
僧都が庫裏に入り、ようやくくつろいでいると、武士の一人が言った。
「しかし、今回は、少し危険でしたね」
「そうですね。しばらく、少将のところへは行かないことにしましょう」
「それがよろしいかと存じます」
「収穫もありましたよ」
「それは?」
「女房の姿で私が少将邸に出入りすることを、摂津派に漏らした者がいるようです」
「はい。それは、今調べているところです」
「こちらが動かなければ、こういう情報はわからないものです」
「危険ですが、ある程度動く必要はあると思います」