按察
74
卯の花が部屋をとてもさわやかにしていた。
「しかし、この歌はどう取ればいいだろうか?」
逢ふことは雲居のはるか音羽山音のみ聞きて恋ひわたりけり
左大臣はしきりに首をひねった。
「もちろん、その気があるということでございますわ」
可須水が明るい声で答えた。
「娘に好意を持っているということではあると思うが」
「それは、もちろんでございます。雲の上のように、自分には手の届かない存在だと、中の君をおほめになっております」
「音羽山音のみ聞きて、と、これはどういうことだろう?」
可須水は、心の中で笑った。古今集を知っている者なら、だれだってわかることである。これが権大納言家であれば、当主の権大納言はもちろんのこと、北の方、宣耀殿女御、頭弁も当然のごとく、取るに足りない女房までも、この歌は、古今集のどれ、あの歌は、拾遺集のあれ、などと、同内容の歌を的確に指摘するものだが、左大臣家では、そういう習慣がなかったのである。いや、習慣がないというより、そのような知識にあまり関心がないのである。
左大臣は、小さなころから、学問よりも娯楽の方が好きだった。弟の権大納言が漢詩や和歌を苦労して覚える横で、最近世間で評判になっている芸人のものまねをしたり、はやり歌を歌ったりして、女房たちを笑わせていた。女房たちの中には、真面目な権大納言を好む者もいれば、楽しい左大臣を好む者もいた。そういう派閥は、彼らが独立すると、それぞれの屋敷の中核になったから、それぞれの屋敷は、実に対照的な雰囲気が作られていた。権大納言邸では、学問や和歌、伝統的な楽器の演奏が好まれ、左大臣邸では、大衆芸能や世俗的な歌謡が好まれたのである。
そういう経緯があるので、左大臣家には、和歌を本格的に学んだ者は、ほとんどいないのである。もちろん、だれもが知っている歌なら別だが、少し聞きなれない歌となると、十分に理解できないものが、いくつもあった。
可須水は近江派に仕込まれた。近江派は、その領袖が大納言であるから、当然、本格的に和歌を仕込まれる。しかし、可須水が近江派であることは、もちろん、この家の者は知らない。左大臣は、可須水が和歌をよく知っているのは、親の教育であろうと考えている。そして、こういう大切な場面では、可須水に教養を与えた両親をありがたいと思っているのである。
「左大臣様、音羽山と言えば、もう」
可須水がにんまり笑って、それは常識ですよという言い方をするので、左大臣は、まったく知らないとは言いにくい。
「まあ、音羽山と言えば、それは、そうなのだが」
「そうですよね。音羽山と言えば、逢坂の関の近くの山ですからね」
可須水は、あまり左大臣を困らせすぎないように気を遣う。
「そうだ。逢坂の関の近くだからな」
「逢坂の関を越えたいということですよね」
「そうそう、逢坂の関を越えたいのだ」
「ということは、少将様は」
「つまり、中の君と」
「そうです」
「結婚したいということだな」
「さすがですわ、左大臣様」
「では、承知しましたという歌を返してやろうか」
「だめでございます。最初は、じらすものでございます」
「しかし、少将が、それならばもういいとあきらめないか」
「大丈夫です。このような歌をご用意いたしました」
音羽山音のみ聞きて恋ふといふはるか雲居はいづくにあらむ
「え、これでいいのか?」
「最初は、あなたが恋したのは、別の人ではありませんかと、とぼけるのです」
「しかし、この歌はどう取ればいいだろうか?」
逢ふことは雲居のはるか音羽山音のみ聞きて恋ひわたりけり
左大臣はしきりに首をひねった。
「もちろん、その気があるということでございますわ」
可須水が明るい声で答えた。
「娘に好意を持っているということではあると思うが」
「それは、もちろんでございます。雲の上のように、自分には手の届かない存在だと、中の君をおほめになっております」
「音羽山音のみ聞きて、と、これはどういうことだろう?」
可須水は、心の中で笑った。古今集を知っている者なら、だれだってわかることである。これが権大納言家であれば、当主の権大納言はもちろんのこと、北の方、宣耀殿女御、頭弁も当然のごとく、取るに足りない女房までも、この歌は、古今集のどれ、あの歌は、拾遺集のあれ、などと、同内容の歌を的確に指摘するものだが、左大臣家では、そういう習慣がなかったのである。いや、習慣がないというより、そのような知識にあまり関心がないのである。
左大臣は、小さなころから、学問よりも娯楽の方が好きだった。弟の権大納言が漢詩や和歌を苦労して覚える横で、最近世間で評判になっている芸人のものまねをしたり、はやり歌を歌ったりして、女房たちを笑わせていた。女房たちの中には、真面目な権大納言を好む者もいれば、楽しい左大臣を好む者もいた。そういう派閥は、彼らが独立すると、それぞれの屋敷の中核になったから、それぞれの屋敷は、実に対照的な雰囲気が作られていた。権大納言邸では、学問や和歌、伝統的な楽器の演奏が好まれ、左大臣邸では、大衆芸能や世俗的な歌謡が好まれたのである。
そういう経緯があるので、左大臣家には、和歌を本格的に学んだ者は、ほとんどいないのである。もちろん、だれもが知っている歌なら別だが、少し聞きなれない歌となると、十分に理解できないものが、いくつもあった。
可須水は近江派に仕込まれた。近江派は、その領袖が大納言であるから、当然、本格的に和歌を仕込まれる。しかし、可須水が近江派であることは、もちろん、この家の者は知らない。左大臣は、可須水が和歌をよく知っているのは、親の教育であろうと考えている。そして、こういう大切な場面では、可須水に教養を与えた両親をありがたいと思っているのである。
「左大臣様、音羽山と言えば、もう」
可須水がにんまり笑って、それは常識ですよという言い方をするので、左大臣は、まったく知らないとは言いにくい。
「まあ、音羽山と言えば、それは、そうなのだが」
「そうですよね。音羽山と言えば、逢坂の関の近くの山ですからね」
可須水は、あまり左大臣を困らせすぎないように気を遣う。
「そうだ。逢坂の関の近くだからな」
「逢坂の関を越えたいということですよね」
「そうそう、逢坂の関を越えたいのだ」
「ということは、少将様は」
「つまり、中の君と」
「そうです」
「結婚したいということだな」
「さすがですわ、左大臣様」
「では、承知しましたという歌を返してやろうか」
「だめでございます。最初は、じらすものでございます」
「しかし、少将が、それならばもういいとあきらめないか」
「大丈夫です。このような歌をご用意いたしました」
音羽山音のみ聞きて恋ふといふはるか雲居はいづくにあらむ
「え、これでいいのか?」
「最初は、あなたが恋したのは、別の人ではありませんかと、とぼけるのです」