按察
75
灯台の灯があたり、卯の花が白く光っている。
「あまり脈がないのではないか」
少将は、横にいる木いちごの方を向く。
音羽山音のみ聞きて恋ふといふはるか雲居はいづくにあらむ
少将が、脈がない、というのは、この歌のことである。
木いちごは寝具の中で、少将と向かい合う。
「違いますわ、ふふっ」
「……」
もちろん、脈がないのが違うということは、少将もわかっている。わかっているが、そう言ってみたのだ。
「最初の返歌は、男性をじらすように作るものなのです」
木いちごが、ちょっと冷静に考えれば、少将にそういう和歌のたしなみがあるかないか、わかったはずだが、今は、とにかく、なんとしてでも、少将を中の君と結婚させようという気持ちでいっぱいなのであった。
「……」
少将は、木いちごに反論しなかった。先ほどの言葉も、言っても仕方ないと思ってはいたが、どうしても言わずにいられなかったのである。少将は、乳母子の木いちごと小さなころからいっしょに育った。二人は気が合うので、自然と仲がよかったのだが、少将の母が死に、乳母も死ぬと、この家で、二人だけになった。もちろん、女房たちや従者たちはいるが、二人は、互いにほんとうの肉親であるように思い、そう思いあうのは、この家で二人だけだと思った。初めは兄妹のつもりであったが、いつからか夫婦のように、離れられない仲になっていった。木いちごには、近江派のために、少将を守るという任務があった。それは、小さなころから、母に教え諭されたことだった。木いちごや乳母が近江派であることは、少将が大納言に仕えるようになってから、大納言本人から告げられたことであった。そのときに、木いちごを妻にすることはできないとも、厳しく伝えられた。大納言は、少将が木いちごとただならぬ仲であることを、薄々気づいたのであった。少将は、女房を妻にするのは、世間体もあるから、決してないことである、というように答えた。それは、大納言に答えるまでもなく、常識的な判断であった。木いちごにも、はっきりそう言ったことがある。木いちごも、それが当たり前の公卿の判断だと考え、少将に、絶対にそうすべきであると、かなりきつく言ったことがある。
しかし、少将は、木いちごが好きだった。そして、木いちごも、少将が好きだった。
少将は、また、木いちごの口をふさいだ。木いちごも決してあらがわなかった。
しばらくして、二人は、白く光る卯の花を見ながら、きれいな卯の花だと言った。
それからしばらくして、少将は、また、口を開いた。
「きち」
少将は、二人だけのときは、小さなころから呼びなれている「きち」という呼び名で、木いちごを呼んだ。
「はい。なんでしょうか」
「俺は、きちと今までと同じようにして、暮らしたいんだ」
「なにを言ってらっしゃるのですか。当然です。私は、これからもずっと、少将様の近くにお仕えいたしますわ」
「俺は、左大臣の中の君といっしょになりたくないのだ」
「……」
「近江派とか播磨派とか、そんなものとは無縁の世界に行って、二人で暮らさないか」
「……」
「俺はなんでもする。そこが山なら、木を切る。そこが海なら、魚を捕る」
木いちごは、なきじゃくっていた。
「きちは、小さな俺の家で、飯を作って、子どもを育ててくれ」
木いちごの涙が少将の頬を濡らしていた。
少将は、ずっと、二人で暮らす将来を語り続けた。いつしか、木いちごの涙に少将の涙が混じっていた。
木いちごは、この夜、少将の背中をずっとさすっていた。
朝、木いちごは、ある決断をした。
「あまり脈がないのではないか」
少将は、横にいる木いちごの方を向く。
音羽山音のみ聞きて恋ふといふはるか雲居はいづくにあらむ
少将が、脈がない、というのは、この歌のことである。
木いちごは寝具の中で、少将と向かい合う。
「違いますわ、ふふっ」
「……」
もちろん、脈がないのが違うということは、少将もわかっている。わかっているが、そう言ってみたのだ。
「最初の返歌は、男性をじらすように作るものなのです」
木いちごが、ちょっと冷静に考えれば、少将にそういう和歌のたしなみがあるかないか、わかったはずだが、今は、とにかく、なんとしてでも、少将を中の君と結婚させようという気持ちでいっぱいなのであった。
「……」
少将は、木いちごに反論しなかった。先ほどの言葉も、言っても仕方ないと思ってはいたが、どうしても言わずにいられなかったのである。少将は、乳母子の木いちごと小さなころからいっしょに育った。二人は気が合うので、自然と仲がよかったのだが、少将の母が死に、乳母も死ぬと、この家で、二人だけになった。もちろん、女房たちや従者たちはいるが、二人は、互いにほんとうの肉親であるように思い、そう思いあうのは、この家で二人だけだと思った。初めは兄妹のつもりであったが、いつからか夫婦のように、離れられない仲になっていった。木いちごには、近江派のために、少将を守るという任務があった。それは、小さなころから、母に教え諭されたことだった。木いちごや乳母が近江派であることは、少将が大納言に仕えるようになってから、大納言本人から告げられたことであった。そのときに、木いちごを妻にすることはできないとも、厳しく伝えられた。大納言は、少将が木いちごとただならぬ仲であることを、薄々気づいたのであった。少将は、女房を妻にするのは、世間体もあるから、決してないことである、というように答えた。それは、大納言に答えるまでもなく、常識的な判断であった。木いちごにも、はっきりそう言ったことがある。木いちごも、それが当たり前の公卿の判断だと考え、少将に、絶対にそうすべきであると、かなりきつく言ったことがある。
しかし、少将は、木いちごが好きだった。そして、木いちごも、少将が好きだった。
少将は、また、木いちごの口をふさいだ。木いちごも決してあらがわなかった。
しばらくして、二人は、白く光る卯の花を見ながら、きれいな卯の花だと言った。
それからしばらくして、少将は、また、口を開いた。
「きち」
少将は、二人だけのときは、小さなころから呼びなれている「きち」という呼び名で、木いちごを呼んだ。
「はい。なんでしょうか」
「俺は、きちと今までと同じようにして、暮らしたいんだ」
「なにを言ってらっしゃるのですか。当然です。私は、これからもずっと、少将様の近くにお仕えいたしますわ」
「俺は、左大臣の中の君といっしょになりたくないのだ」
「……」
「近江派とか播磨派とか、そんなものとは無縁の世界に行って、二人で暮らさないか」
「……」
「俺はなんでもする。そこが山なら、木を切る。そこが海なら、魚を捕る」
木いちごは、なきじゃくっていた。
「きちは、小さな俺の家で、飯を作って、子どもを育ててくれ」
木いちごの涙が少将の頬を濡らしていた。
少将は、ずっと、二人で暮らす将来を語り続けた。いつしか、木いちごの涙に少将の涙が混じっていた。
木いちごは、この夜、少将の背中をずっとさすっていた。
朝、木いちごは、ある決断をした。