按察
76
卯の花を摘んで、木いちごが、少将の部屋に入り、活け始めた。
歌を詠んでいた少将が、卯の花を見た。卯の花の方を見ているようにしながら、木いちごの美しい横顔を見ていたのだった。
卯の花を活け終わった木いちごは、少将の方を向き直った。
「少将様」
木いちごの声が改まっていた。
「どうしたのだ?」
「いえ、式部丞(しきぶのじよう)様が、あとでお話ししたいことがあると」
「式部丞? わかった。別に今でもかまわないが」
「それでは、そう伝えて参ります」
式部丞は、この屋敷の家司(けいし)で、誠実な男だった。少将は、彼の真面目な顔を思い浮かべながら、いったい、どんな話があるのだろうと思った。
ほどなくして、
「失礼いたします」
と、式部丞の声がした。
「入れ」
「ハッ」
式部丞は、硬くなっていた。少将が座を勧めても、しばらく遠慮し、座についても、しばらくなにも言わなかった。
「どうした? なにか話があるとか、備前が言っておったが」
式部丞は、ひれ伏した。
「少将様、どうか、お怒りになりませぬよう、お願いいたします」
「どうした」
「備前のことでございます」
「備前?」
少将は、口の中に、変な味がするような気がした。
「以前から、手紙を渡すということをいたしましたが、このたび、いっしょになることになりました」
少将は、一瞬、目の前がくらくらするような気分になった。しかし、すぐに返事をした。
「それは、おめでたいことではないか」
「お怒りにはなりませんで」
「なぜ、私が怒らねばならぬ」
「備前は、御幼少のころから、御乳母子ということで、お部屋勤めをいたす、大切な女房でございます」
「そのような女房は、備前だけでなく、幾人もおるわ。備前は、そのうちの一人にすぎん」
「ありがとうございます」
「いや、ほんとうにめでたいことだ。なにか祝いの品を用意しよう」
「いえ、そんな滅相もございません」
「遠慮をするな」
「それでは、お時間をいただき、誠にありがとうございました」
「いや、いや、このたびは、ほんとうにおめでとう」
少将もかしこまって、丁寧に辞儀をした。
その日から、少将は備前を配置換えした。左大臣家の中の君との婚儀が整い次第、その女房頭として、采配を振るってほしいと申し渡すと、備前は、恭しく辞儀をした。
少将が備前を寝室に呼ぶことは、以来、決してなかった。あの夜のように、親しく「きち」と呼ぶことも、「木いちご」と呼ぶこともなくなり、「備前」一色になった。それも、やがて、「式部」という呼び名に変わるだろう。
少将は、公私に付け、けじめがしっかりしていた。備前も、そうであった。いや、二人は、そのように、備前の母、すなわち、少将の乳母に、厳格にしつけられたのだった。乳母がまだ生きていれば、二人は、決して実質的な夫婦のような関係にはならなかっただろう。そのことは、二人にとって、唯一の落ち度であった。しかし、それ以外は、二人は、しっかりとけじめをつけて、主従関係を保っていたのだった。
中の君との婚儀を終えるまでは、備前は、北の方の整備をしながら、中の君との連絡、調整に忙しかった。少将が贈る歌を作るためには、やはり、備前の力を必要としたので、少将の部屋に入ることもあった。
恋しきに寝ても覚めても燃えさかる我の思ひを人知るらめや
備前は、少将の歌に胸を締め付けられた。
歌を詠んでいた少将が、卯の花を見た。卯の花の方を見ているようにしながら、木いちごの美しい横顔を見ていたのだった。
卯の花を活け終わった木いちごは、少将の方を向き直った。
「少将様」
木いちごの声が改まっていた。
「どうしたのだ?」
「いえ、式部丞(しきぶのじよう)様が、あとでお話ししたいことがあると」
「式部丞? わかった。別に今でもかまわないが」
「それでは、そう伝えて参ります」
式部丞は、この屋敷の家司(けいし)で、誠実な男だった。少将は、彼の真面目な顔を思い浮かべながら、いったい、どんな話があるのだろうと思った。
ほどなくして、
「失礼いたします」
と、式部丞の声がした。
「入れ」
「ハッ」
式部丞は、硬くなっていた。少将が座を勧めても、しばらく遠慮し、座についても、しばらくなにも言わなかった。
「どうした? なにか話があるとか、備前が言っておったが」
式部丞は、ひれ伏した。
「少将様、どうか、お怒りになりませぬよう、お願いいたします」
「どうした」
「備前のことでございます」
「備前?」
少将は、口の中に、変な味がするような気がした。
「以前から、手紙を渡すということをいたしましたが、このたび、いっしょになることになりました」
少将は、一瞬、目の前がくらくらするような気分になった。しかし、すぐに返事をした。
「それは、おめでたいことではないか」
「お怒りにはなりませんで」
「なぜ、私が怒らねばならぬ」
「備前は、御幼少のころから、御乳母子ということで、お部屋勤めをいたす、大切な女房でございます」
「そのような女房は、備前だけでなく、幾人もおるわ。備前は、そのうちの一人にすぎん」
「ありがとうございます」
「いや、ほんとうにめでたいことだ。なにか祝いの品を用意しよう」
「いえ、そんな滅相もございません」
「遠慮をするな」
「それでは、お時間をいただき、誠にありがとうございました」
「いや、いや、このたびは、ほんとうにおめでとう」
少将もかしこまって、丁寧に辞儀をした。
その日から、少将は備前を配置換えした。左大臣家の中の君との婚儀が整い次第、その女房頭として、采配を振るってほしいと申し渡すと、備前は、恭しく辞儀をした。
少将が備前を寝室に呼ぶことは、以来、決してなかった。あの夜のように、親しく「きち」と呼ぶことも、「木いちご」と呼ぶこともなくなり、「備前」一色になった。それも、やがて、「式部」という呼び名に変わるだろう。
少将は、公私に付け、けじめがしっかりしていた。備前も、そうであった。いや、二人は、そのように、備前の母、すなわち、少将の乳母に、厳格にしつけられたのだった。乳母がまだ生きていれば、二人は、決して実質的な夫婦のような関係にはならなかっただろう。そのことは、二人にとって、唯一の落ち度であった。しかし、それ以外は、二人は、しっかりとけじめをつけて、主従関係を保っていたのだった。
中の君との婚儀を終えるまでは、備前は、北の方の整備をしながら、中の君との連絡、調整に忙しかった。少将が贈る歌を作るためには、やはり、備前の力を必要としたので、少将の部屋に入ることもあった。
恋しきに寝ても覚めても燃えさかる我の思ひを人知るらめや
備前は、少将の歌に胸を締め付けられた。