按察
78
可須水が常夏(とこなつ)を上品に活け、左大臣の部屋に持ってきた。
「おお、きれいな撫子だな」
「ただいま少将様から届いたばかりです」
「結び文がついているな」
左大臣は、丁寧に手紙を開いた。
我が宿に咲くとこ夏のいとしきによも塵をだにすゑじと思ふ
これは、さすがに、左大臣にも、古今集の躬恒の歌がもとになっていることは、理解できた。「常夏」は、撫子のことだが、もちろん、中の君を指している。また、「常夏」の「とこ」は、「寝床」と掛けてあり、これから結婚する二人の寝室の意を含んでいる。少将が、中の君を迎えたら、二人の寝室にまったく塵が付かないようにするくらい、大切に扱うという内容である。
「これは、うれしい歌だな」
「ほんとうに、そうでございますわ」
左大臣は、常夏の花を見ながら、涙を流し始めた。可須水は、そのまま静かに控えていた。そのうちに、左大臣が、鼻声になりながら、不安を訴えだした。
「私は、婚姻の日まで、生きていられるだろうか」
「左大臣様、そのような、気弱なことをおっしゃらないでください」
左大臣は、内臓にできた石が大きくなり、このところ不調を訴えることが多くなっていた。しかし、可須水が持ち込んだ薬草のせいで、石ができていることは、知らない。そもそも、石があることも知りようがなかった。それで、不調になると、薬草をさらにほしがる。煎じたものを飲むと、一時的によくなるので、病の原因物質が、治療に効くとさえ信じている。こうなると、もはや、処置なしである。
腹痛がひどいある夜には、可須水に兄の律師を呼んでこさせ、加持祈祷をさせた。左大臣の隣に座っている憑坐(よりまし)の女に、物の怪が移り、恐ろしい声で名乗りを上げたことがある。すると、それは、弘徽殿女御の生霊だったのである。生霊は、左大臣のせいで子どもの産めない体になったことを恨んでいると言うのであった。左大臣は、覚えがあった。自分の長女を皇后にしたいがために、毒を使って、弘徽殿女御が子どもを授からないようにしたのであった。
この夜以来、左大臣は、自分の病気が改善するのは、難しいのではないかと思い始めた。左大臣自身、弘徽殿女御に対するひどい仕打ちを罪深いと常々考えていたので、この病気がその報いであるのなら、仕方ないことであると、納得したのである。
いったんそう思い始めると、それは、気持ちまで支配していった。左大臣は、このところ、めっきり老い衰え、腹がひどく痛む日は、何日も宮中に出かけて行かなかった。
「私は、中の君の晴れ姿を見届けてあげられないのではないだろうか」
左大臣は、同じような嘆きを、何度も繰り返した。そのたびに、可須水が慰める。
そのうちに、左大臣は、何事か思いつき、可須水の方を見た。
「私は、もう長くはないだろう。私には、なにも思い残すことはないが、ただ、中の君のことが気がかりである」
中の君は、北の方の娘ではなかった。母が亡くなったので、引き取ったのである。そのため、北の方は、あまり中の君に愛情を持っていない。しかし、中の君は、これから少将のところへ行くのだから、それほど心配する必要はないはずである。可須水は、そう思った。
「あなたは、中の君と気が合うみたいだから、どうだろうか、今後、中の君の世話を頼むことはできないだろうか」
可須水は、納得した。左大臣は、北の方とあまり仲がよくない可須水が、自分の死後に、中の君もいないこの屋敷に暮らすのは、居心地が悪いだろうと配慮したのであった。左大臣のやさしさに、可須水は、左大臣に自分が犯した罪の深さを、痛烈に感じた。しかし、それが、自分の使命であるから、どうにもならなかった。
「そんなことは、考えたくないことでございますが、仰せであれば」
可須水は、泣きながらそう答えた。
左大臣は、うれしそうな顔をした。
「おお、きれいな撫子だな」
「ただいま少将様から届いたばかりです」
「結び文がついているな」
左大臣は、丁寧に手紙を開いた。
我が宿に咲くとこ夏のいとしきによも塵をだにすゑじと思ふ
これは、さすがに、左大臣にも、古今集の躬恒の歌がもとになっていることは、理解できた。「常夏」は、撫子のことだが、もちろん、中の君を指している。また、「常夏」の「とこ」は、「寝床」と掛けてあり、これから結婚する二人の寝室の意を含んでいる。少将が、中の君を迎えたら、二人の寝室にまったく塵が付かないようにするくらい、大切に扱うという内容である。
「これは、うれしい歌だな」
「ほんとうに、そうでございますわ」
左大臣は、常夏の花を見ながら、涙を流し始めた。可須水は、そのまま静かに控えていた。そのうちに、左大臣が、鼻声になりながら、不安を訴えだした。
「私は、婚姻の日まで、生きていられるだろうか」
「左大臣様、そのような、気弱なことをおっしゃらないでください」
左大臣は、内臓にできた石が大きくなり、このところ不調を訴えることが多くなっていた。しかし、可須水が持ち込んだ薬草のせいで、石ができていることは、知らない。そもそも、石があることも知りようがなかった。それで、不調になると、薬草をさらにほしがる。煎じたものを飲むと、一時的によくなるので、病の原因物質が、治療に効くとさえ信じている。こうなると、もはや、処置なしである。
腹痛がひどいある夜には、可須水に兄の律師を呼んでこさせ、加持祈祷をさせた。左大臣の隣に座っている憑坐(よりまし)の女に、物の怪が移り、恐ろしい声で名乗りを上げたことがある。すると、それは、弘徽殿女御の生霊だったのである。生霊は、左大臣のせいで子どもの産めない体になったことを恨んでいると言うのであった。左大臣は、覚えがあった。自分の長女を皇后にしたいがために、毒を使って、弘徽殿女御が子どもを授からないようにしたのであった。
この夜以来、左大臣は、自分の病気が改善するのは、難しいのではないかと思い始めた。左大臣自身、弘徽殿女御に対するひどい仕打ちを罪深いと常々考えていたので、この病気がその報いであるのなら、仕方ないことであると、納得したのである。
いったんそう思い始めると、それは、気持ちまで支配していった。左大臣は、このところ、めっきり老い衰え、腹がひどく痛む日は、何日も宮中に出かけて行かなかった。
「私は、中の君の晴れ姿を見届けてあげられないのではないだろうか」
左大臣は、同じような嘆きを、何度も繰り返した。そのたびに、可須水が慰める。
そのうちに、左大臣は、何事か思いつき、可須水の方を見た。
「私は、もう長くはないだろう。私には、なにも思い残すことはないが、ただ、中の君のことが気がかりである」
中の君は、北の方の娘ではなかった。母が亡くなったので、引き取ったのである。そのため、北の方は、あまり中の君に愛情を持っていない。しかし、中の君は、これから少将のところへ行くのだから、それほど心配する必要はないはずである。可須水は、そう思った。
「あなたは、中の君と気が合うみたいだから、どうだろうか、今後、中の君の世話を頼むことはできないだろうか」
可須水は、納得した。左大臣は、北の方とあまり仲がよくない可須水が、自分の死後に、中の君もいないこの屋敷に暮らすのは、居心地が悪いだろうと配慮したのであった。左大臣のやさしさに、可須水は、左大臣に自分が犯した罪の深さを、痛烈に感じた。しかし、それが、自分の使命であるから、どうにもならなかった。
「そんなことは、考えたくないことでございますが、仰せであれば」
可須水は、泣きながらそう答えた。
左大臣は、うれしそうな顔をした。