按察

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 木いちごが常夏を上品に活け、北の方に持ってきた。
「きれいな撫子ね」

「はい、大和撫子でございます」
「私、とても好きよ」
「私もでございます」

恋しきに寝ても覚めても燃えさかる我の思ひを人知るらめや

我が宿に咲くとこ夏のいとしきによも塵をだにすゑじと思ふ

 少将は、婚姻に際して、このような順序で、中の君への思いを高めていった。中の君はうれしかった。政略的な結婚の形式として贈られた歌だとわかっていても、その中で、やはり情熱と誠意が伝わる歌を贈ってくれた少将の人柄がうれしかったのである。
 木いちごは、これらの歌を中の君に贈る少将の心の動きについて、非常に近いところで見てきた。木いちごは、少将が好きだった。少将も、木いちごが好きだった。少将は、中の君とは、できれば結婚したくなかった。いつまでも木いちごと、実質的な夫婦の関係を続けていたかった。そして、はっきりとそう言った。木いちごも、本心ではそう思っていた。はっきりとそう言いたかった。しかし、それは言ってはならないことであった。もう喉元まで出かかっていた。それをこらえた。そして、決意したのだ。式部丞に返事をしようと。式部丞は、かなり以前から木いちごに手紙をくれた。式部丞は、木いちごと少将がどのような関係であるか、知っていた。それでも、木いちごを妻にしたいと誠実に説得した。木いちごはためらっていた。やはり、少将との現在の関係を、いつまでも続けていたい気持ちがあったのである。しかし、いつまでもそうしていることが、二人にとってよくないこともわかっていた。それで、式部丞の持ってくれる愛情に応えようと決意したのである。
 少将は、二人の間に生じた新たな現実を、冷静に受け入れた。これは、木いちごの予想通りであった。少将は、木いちごと同様、基本的に大変自制心が強い。また、木いちごが新生活に踏み切ったことで、少将自身も新生活への決心がついたのである。木いちごが式部丞との家庭を着実に築いていこうとするのと同時に、少将も中の君との家庭を着々と築き始めていこうとした。
 しかし、そういった中でも、少将は、抑えがたい木いちごへの思いを表出せずにはいられなかった。それが、「恋しきに」の歌には、表れている。これは、少将の熱い思いとして、中の君やその家族には、非常に歓迎されたが、ほんとうは、少将の、木いちごへの、最後の歌であった。木いちごは、それがわかった。木いちごは、この歌を中の君に持っていき、中の君の返事を持ち帰り、少将に渡して、自室に戻り、一晩中泣いていた。
 少将は、木いちごを自分の妻のようにしていたころ、とても大切に扱った。この時代には珍しいことだが、少将は、ほかの女性とは、いっさい関係を持たなかった。「我が宿に」の歌は、「私はお前のことをこのように扱ってきた」という、少将の節度を示したものと言えよう。木いちごは、そう理解した。そして、また、木いちごは思った。「これから私は、中の君のことを、このように扱うつもりだ」という、少将の宣言でもあるのだと。少将は、けじめがあり、女性関係をわきまえているから、一度中の君を妻にしたら、決して他の女性とは関係を持たないに違いない。それが、たとえ、木いちごであっても。この歌は、そのように、過去と完全に決別し、将来を確固として築き上げるための宣言なのである。
 木いちごは、この歌を見て、やはり、ひどく泣いた。しかし、これで、木いちごの気持ちにも、はっきりと区切りがついたのであった。
 常夏の花は、かわいい女性をたとえるものでもあるが、中の君と木いちごには、少将を思わせるものでもあった。
 中の君が「とても好きよ」と言うときに、それは、少将が好きだという意味も含んでいたが、木いちごが「私も」と言うときにも、そういう意味を含んでいたのである。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日