按察

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 木いちごが活けた常夏を、中の君は見ていた。
 常夏には、中の君の特別な思い出がある。
 常夏には、木いちごにも特別な思い出がある。
 中の君は、常夏を見ていると、少将を思ってしまう。
 木いちごも、常夏を見ていると、少将を思ってしまう。
 しかし、二人の思うことは、まったく違っていた。
 中の君の思うことは、木いちごにもわかった。
 木いちごの思うことは、中の君の知らないことだった。知ってはならないことであった。
 木いちごは、あの夜の少将のことを思い出していた。
 少将は、木いちごに、二人で遠いところに行こうと、本気で説得した。
 少将は、越前にあてがあると言った。
 越前は、不思議な国だった。
 そこの武士たちは、変わっていた。摂津派にも、近江派にも、播磨派にも逆らわない。その代わり、どこの味方にもならない。とは言っても、現在は、一応近江派に与している。与していると言っても、会費を払って、適当にあしらっているような感じなのである。摂津派が本気で圧力をかければ、そちらに付くであろう。付いたとしても、とりあえず会費を払って、適当にあしらうつもりなのだ。そこへ、播磨派が、本気で迫れば、そちらに付くであろう。つまり、のらりくらりとしている。米がたくさん穫れるし、海の幸、山の幸が豊富だから、経済的に余裕があるのである。のらりくらりとしながら、したたかに狙っている。摂津派か近江派か播磨派のどこかが弱体化したら、そこを攻めて、乗っ取ってしまおうと。早い話、越前派をこの世に生み出そうともくろんでいる。大陸に近いから、外国貿易による利潤もある。最新の道具や武器もある。摂津派、近江派、播磨派からすると、ちょっと扱いにくい国である。
 そういう不思議な国に、少将はあてがあるというのである。
 たしかに、以前、少将は越前守をしていたことがあった。少将は、摂関家の血筋であり、父も公卿であるから、さすがに赴任することはなかった。しかし、この時期に多少の人脈ができたのだと言う。それは、木いちごも多少は知っている。毎年、越前の寄人からは、たくさんの贈り物が届くのである。それに、少将邸の従者には、越前から来たものが多かった。
 そういえば、少将は、現地の視察と称して、たまに越前まで出かけていく。もしかすると、越前には、少将の別邸があるのではないだろうか?
 木いちごが訊いても、少将は細かいことは何も言わなかったが、どうやら、越前に、それなりの拠点を形成したと考えていいだろう。そう思った木いちごは、少将と越前で暮らすのもいいと思った。公卿を辞して、地方官を希望し、そこで気楽に暮らす者は、いなくはない。いや、最近、そういう貴族が増えている。少将は、摂関家の血筋であると言っても、父の権大納言は、少将を嫡子にしようとは考えていない。嫡子は、正妻の子である頭弁である。それに、父の権大納言でさえ、摂関家を継承できるかわからない。現在の関白は、父の兄である。そして、次の関白候補は、現在の左大臣であり、これも、父の兄である。少将の父は、この左大臣の次に関白になる可能性がある。しかし、そうなる前に、左大臣の息子が関白を継承するのではないかという見方も、世間では多数派になりつつある。こういう状況では、いつまでたっても、少将が関白になる順番は回ってこないだろう。それならば、潔く公卿の地位を捨てて、再び越前守になり、現地で暮らせば、かなり悪くない暮らしができるのだ。木いちごは、余程、少将の考えに賛成しようかと思った。
 しかし、すんでのところで思いとどまった。
 少将が近江派として、大納言に協力すれば、大納言の娘が入内した二宮が天皇に即位したとき、少将は、かなり有利な地位に就くであろう。それは、父の権大納言に従っているのでは、いつまでたっても手に入れられないような地位であろう。
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日