按察
84
萩の花が美しく色づいているのを、もう一度少将は見た。そして、中の君の部屋から出て行った。
中の君は、これで会えなくなるということはもちろんないだろうが、夫が困難に向かってなんらかの行動を取らなければならないことは、なんとなくわかっていたので、心配で仕方なかった。しかし、自分ができるのは、夫を見送り、夫の留守を守ることだけであった。
「あなた、お気をつけて」
「大丈夫だよ。いつものことさ」
たしかに、中の君がここへ来てから、少将は、二、三度、越前に赴いた。しかし、今回はなにかこれまでとは、様相が異なっているように、中の君には思えるのだった。それは、可須水や木いちごの様子がこれまでとは違う点からも、そう思うのである。
可須水や木いちごは、少将が越前に行くことをあまり喜ばしいこととは思っていないようであった。そういう彼女たちの態度は、今回越前から来た使者が帰っていくと、余計顕著になった。越前に思い入れを持っている夫と、越前に嫌悪感のようなものを抱いている女房たちの間に挟まれて、中の君はやり切れないような気がした。
「あの人は、大丈夫かしら?」
中の君は、可須水に言った。
「大丈夫ですわ。少将様は、とてもしっかりしたお方でございますから」
いつも明るい可須水は、いつものように、明るく応じた。
「越前で山賊が暴れていると言っていたわ。ほんとうに大丈夫かしら」
「少将様は、お強いお方ですから。それに、山賊が出没する方面は、きっと避けてお通りになりますわ」
中の君はわけもなく寂しくなり、可須水のいつもの論調に同意したくなってきた。
「でも、殿はどうして、こう頻繁に越前に行かなければならないのでしょうか。越前守に山賊対策は任せておけないのでしょうか」
もちろんこれは、中の君が夫にも言ったことであったし、可須水や木いちごにも言ったことであったが、これがいちばん可須水や木いちごと一致しやすい話題だったので、まずは、口をついて出るのだった。
「ほんとうに少将みずから地方政治に関与するのは、珍しいことと言えましょう。越前という国は、このところ中国との貿易で勢力が拡大して、少し横柄になってきていると言いますから、今回のことは、いい薬なのです。少将様も少し放っておけばよろしいのですわ」
「そうしたら、どうなるかしら?」
「山賊たちは、なんでも大昔の天皇の血筋を引く有力者を担いで、世直しをするなどと、大ぼらを吹いているそうでございます。越前守たちがこういう反乱者を鎮圧できなければ、若狭や近江から鎮圧部隊が出て、すぐに解決してくださると思いますわ。その方が、少将様みずからが危険に身をさらすよりは、余程よいことだと思います」
「でも、若狭や近江からの鎮圧部隊は、あてになるのかしら」
「それは、もう、頼もしいと思いますわ。特に近江の武士たちは、大変な精鋭だと聞いたことがあります。近江が動いてくれれば、鎮圧は間違いないと、世間では大変期待しているそうです」
「あら、少納言は、近江に妙に肩を持つのね」
「いえ、いえ、私が個人的に肩入れしているということではないのです。私など、一介の女房風情には、難しい政治のことなど、まったくわからないのですが、つい耳にした世間の噂から、そのような状況を聞き知ったのでございますわ」
「あなたのような社交的な方がそう言うのでしたら、きっと間違いないのでしょうね。早く近江の武士たちが乱を鎮めてくれるといいのに」
「ご安心くださいませ。なんでも、人々の話ですと、近江派の大納言様が、主上に進言して、近江の武士団を派遣することが、内々で決まっているそうですよ」
「あら、あなたは、よくそんなことまでご存じね」
「いえ、みなさんが言うものですから」
可須水は控えめに言っていたが、それでもどこか得意そうな様子を感じさせた。
中の君は、これで会えなくなるということはもちろんないだろうが、夫が困難に向かってなんらかの行動を取らなければならないことは、なんとなくわかっていたので、心配で仕方なかった。しかし、自分ができるのは、夫を見送り、夫の留守を守ることだけであった。
「あなた、お気をつけて」
「大丈夫だよ。いつものことさ」
たしかに、中の君がここへ来てから、少将は、二、三度、越前に赴いた。しかし、今回はなにかこれまでとは、様相が異なっているように、中の君には思えるのだった。それは、可須水や木いちごの様子がこれまでとは違う点からも、そう思うのである。
可須水や木いちごは、少将が越前に行くことをあまり喜ばしいこととは思っていないようであった。そういう彼女たちの態度は、今回越前から来た使者が帰っていくと、余計顕著になった。越前に思い入れを持っている夫と、越前に嫌悪感のようなものを抱いている女房たちの間に挟まれて、中の君はやり切れないような気がした。
「あの人は、大丈夫かしら?」
中の君は、可須水に言った。
「大丈夫ですわ。少将様は、とてもしっかりしたお方でございますから」
いつも明るい可須水は、いつものように、明るく応じた。
「越前で山賊が暴れていると言っていたわ。ほんとうに大丈夫かしら」
「少将様は、お強いお方ですから。それに、山賊が出没する方面は、きっと避けてお通りになりますわ」
中の君はわけもなく寂しくなり、可須水のいつもの論調に同意したくなってきた。
「でも、殿はどうして、こう頻繁に越前に行かなければならないのでしょうか。越前守に山賊対策は任せておけないのでしょうか」
もちろんこれは、中の君が夫にも言ったことであったし、可須水や木いちごにも言ったことであったが、これがいちばん可須水や木いちごと一致しやすい話題だったので、まずは、口をついて出るのだった。
「ほんとうに少将みずから地方政治に関与するのは、珍しいことと言えましょう。越前という国は、このところ中国との貿易で勢力が拡大して、少し横柄になってきていると言いますから、今回のことは、いい薬なのです。少将様も少し放っておけばよろしいのですわ」
「そうしたら、どうなるかしら?」
「山賊たちは、なんでも大昔の天皇の血筋を引く有力者を担いで、世直しをするなどと、大ぼらを吹いているそうでございます。越前守たちがこういう反乱者を鎮圧できなければ、若狭や近江から鎮圧部隊が出て、すぐに解決してくださると思いますわ。その方が、少将様みずからが危険に身をさらすよりは、余程よいことだと思います」
「でも、若狭や近江からの鎮圧部隊は、あてになるのかしら」
「それは、もう、頼もしいと思いますわ。特に近江の武士たちは、大変な精鋭だと聞いたことがあります。近江が動いてくれれば、鎮圧は間違いないと、世間では大変期待しているそうです」
「あら、少納言は、近江に妙に肩を持つのね」
「いえ、いえ、私が個人的に肩入れしているということではないのです。私など、一介の女房風情には、難しい政治のことなど、まったくわからないのですが、つい耳にした世間の噂から、そのような状況を聞き知ったのでございますわ」
「あなたのような社交的な方がそう言うのでしたら、きっと間違いないのでしょうね。早く近江の武士たちが乱を鎮めてくれるといいのに」
「ご安心くださいませ。なんでも、人々の話ですと、近江派の大納言様が、主上に進言して、近江の武士団を派遣することが、内々で決まっているそうですよ」
「あら、あなたは、よくそんなことまでご存じね」
「いえ、みなさんが言うものですから」
可須水は控えめに言っていたが、それでもどこか得意そうな様子を感じさせた。