按察
85
美しく色づいている萩の花を、もう一度見て、可須水が中の君の部屋から退出した。実家に用があると言う。
しばらくすると、中将の君が話しかけてきた。彼女は、中の君の母が亡くなる以前から仕えていた女房で、物静かだが、だれよりも信用できる者だった。母が他界したあとも、変わらぬ気持ちで中の君の世話をして、居心地の悪い左大臣家で、気持ちを支えてくれたのであった。もちろん可須水や木いちごも、中の君には忠実に仕えていたが、まだ、気心の知れない部分が残るのも確かであった。中の君は、可須水や木いちごにも相談できないことがあるときは、この中将の君に相談するか、だれにも相談しないで自分の胸にしまっておくかするのだった。
「先ほど少納言は、若狭が援軍を差し向けるようなことを申しておりましたが、ほんとうなのでしょうか?」
「私も、気になったわ。夫は、若狭が山賊をかばうから、大きな反乱になるかもしれないと言ってたわ。どっちがほんとうなのかしら?」
「私も情報を集めてみます」
「ありがとう。いつも助かるわ」
中の君は、中将の君から、自分の進退に重要な情報を集め、身の安全を図っていた。そのような支援者がいなければ、中の君のような立場の女性は、安定した生活の基盤を築くことができないのである。中将の君は、父が三河守であったため、三河の武士たちが、なにかと働いてくれるのであった。三河の武士たちも、独特な雰囲気があった。一応摂津派に属してはいたが、その中にあって、三河派というような集団を形成していたので、摂津派の棟梁である摂津守も、中将の君の父から承諾を得ないでは、大きな方針などは、決定することはできないのであった。「中将の君」と呼ばれるのは、父が中将と三河守を兼任していたからであった。この三河守は、度量の大きな人物であった。彼が大和守であったとき、大きな荘園を持っている貴族が、租税を納めないということがあった。彼は、その人が大の猫嫌いであるということを知って、猫責めにしたことがある。どういうことかというと、彼を塗り籠めに閉じ込め、数匹の猫を放ったのである。ほどもなく降参して、滞納した租税を残らず納めたというので、世間ではだいぶ評判になったのであった。彼が退散したあと、その家の子どもたちが、塗り籠めの猫と楽しそうに遊んだのだったが、そのうちの一人が、この中将の君という女房なのであった。
「近江が鎮圧部隊を出すというのは、当然でしょうね」
中の君は言った。中の君は、だれかを完全に信じるということをしない。可須水が言うことをそのまま信じるのではなく、それがどれほど確かな情報なのか、周囲から意見を聞いてから、自分なりに解釈するのだ。
「大納言様が近江を派遣しようとしているというのは、私も聞いております」
「じゃあ、ほんとうにそうなのね」
「主上や左大臣様も、一も二もなく了承されたそうです」
「それはそうよね」
「しかし」
「なにかまずいことでも」
「なんと申し上げたらよいのでしょうか? その決定のあとも、近江は動いていないそうです」
「万全の準備をしているんじゃない?」
「はい、みなさんそう言っているのですが、どうも」
「なにか知っているの?」
「私の父から聞いたのですが、近江には、まったく動く気配がないそうです」
「中将様がおっしゃることなら、そうなんでしょうね。でも、どうして?」
「それは、わかりかねますが、大納言様は、とても弱っているそうです」
「それはそうよね。近江派を掌握している当の本人が命令を下したのに、いざというときに動かないなんて。怖がっているのかしら?」
「それはさすがにないと思いますが、なにか不穏な感じがいたします」
「少し調べられるかしら?」
「もちろんです」
しばらくすると、中将の君が話しかけてきた。彼女は、中の君の母が亡くなる以前から仕えていた女房で、物静かだが、だれよりも信用できる者だった。母が他界したあとも、変わらぬ気持ちで中の君の世話をして、居心地の悪い左大臣家で、気持ちを支えてくれたのであった。もちろん可須水や木いちごも、中の君には忠実に仕えていたが、まだ、気心の知れない部分が残るのも確かであった。中の君は、可須水や木いちごにも相談できないことがあるときは、この中将の君に相談するか、だれにも相談しないで自分の胸にしまっておくかするのだった。
「先ほど少納言は、若狭が援軍を差し向けるようなことを申しておりましたが、ほんとうなのでしょうか?」
「私も、気になったわ。夫は、若狭が山賊をかばうから、大きな反乱になるかもしれないと言ってたわ。どっちがほんとうなのかしら?」
「私も情報を集めてみます」
「ありがとう。いつも助かるわ」
中の君は、中将の君から、自分の進退に重要な情報を集め、身の安全を図っていた。そのような支援者がいなければ、中の君のような立場の女性は、安定した生活の基盤を築くことができないのである。中将の君は、父が三河守であったため、三河の武士たちが、なにかと働いてくれるのであった。三河の武士たちも、独特な雰囲気があった。一応摂津派に属してはいたが、その中にあって、三河派というような集団を形成していたので、摂津派の棟梁である摂津守も、中将の君の父から承諾を得ないでは、大きな方針などは、決定することはできないのであった。「中将の君」と呼ばれるのは、父が中将と三河守を兼任していたからであった。この三河守は、度量の大きな人物であった。彼が大和守であったとき、大きな荘園を持っている貴族が、租税を納めないということがあった。彼は、その人が大の猫嫌いであるということを知って、猫責めにしたことがある。どういうことかというと、彼を塗り籠めに閉じ込め、数匹の猫を放ったのである。ほどもなく降参して、滞納した租税を残らず納めたというので、世間ではだいぶ評判になったのであった。彼が退散したあと、その家の子どもたちが、塗り籠めの猫と楽しそうに遊んだのだったが、そのうちの一人が、この中将の君という女房なのであった。
「近江が鎮圧部隊を出すというのは、当然でしょうね」
中の君は言った。中の君は、だれかを完全に信じるということをしない。可須水が言うことをそのまま信じるのではなく、それがどれほど確かな情報なのか、周囲から意見を聞いてから、自分なりに解釈するのだ。
「大納言様が近江を派遣しようとしているというのは、私も聞いております」
「じゃあ、ほんとうにそうなのね」
「主上や左大臣様も、一も二もなく了承されたそうです」
「それはそうよね」
「しかし」
「なにかまずいことでも」
「なんと申し上げたらよいのでしょうか? その決定のあとも、近江は動いていないそうです」
「万全の準備をしているんじゃない?」
「はい、みなさんそう言っているのですが、どうも」
「なにか知っているの?」
「私の父から聞いたのですが、近江には、まったく動く気配がないそうです」
「中将様がおっしゃることなら、そうなんでしょうね。でも、どうして?」
「それは、わかりかねますが、大納言様は、とても弱っているそうです」
「それはそうよね。近江派を掌握している当の本人が命令を下したのに、いざというときに動かないなんて。怖がっているのかしら?」
「それはさすがにないと思いますが、なにか不穏な感じがいたします」
「少し調べられるかしら?」
「もちろんです」