按察

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86

 美しく色づいている萩の花を、可須水が手に持って、入り口から顔をのぞかせた。
 すぐに、親しい女房が声を掛ける。
「少納言、久しぶり!」
「しずく、来てたのね!」
 そこは、鴨川付近にある尼寺であった。もとは、二条の后が別院にしていたところだったそうだが、その跡を尼寺にしたのだという。二条の后は、摂津派でも、有力な人物であったから、この尼寺もその影響で、一時期は、京における摂津派の拠点のようになっていた。その名残が現在でも濃厚に残っていて、ここは、摂津派の集会所のように使われているのであった。しかし、摂津派の大御所連中やその奥方たちが直接ここを訪れることは、それほど多くはなく、主に女房たちが、交流を深めたり、心身を休めたりするのに、利用しているのだった。もちろん、第一義的には、だれもが仏道修行のために参詣するのであったが、それは、言うまでもないことであり、みんな熱心に読経に励むのではあったが、そういう中でも、だれもが第二義的な目的を、罰当たりではない程度に、楽しんでいるのであった。
 中には、正式な摂津派として、だれからも認められている者の中に、可須水のような近江派の女房たちが、この尼寺で極秘の任務を遂行していたが、彼女たちは、とても賢かったので、怪しまれることはなかった。木いちごもその一人であったが、可須水に声をかけたしずくも、そうであった。
 可須水も木いちごもしずくも、近江派の大納言の指令に従い、摂津派の大御所の邸宅などに潜入していた。もっとも、大納言は直接指示しない。指示するのは、大納言に仕えている、水海という女房であった。とはいっても、水海も直接指示しない。水海が大納言邸によく出入りする僧に伝え、僧は自分の寺に訪れる妹の尼に伝える。尼は、この尼寺に住んでいるのであった。
 可須水たちが、この尼寺に念仏を唱えに来ると、尼が菓子と一緒にお守りを渡す。これらは、この尼寺に訪れた人には、老若男女、貴賤を問わず、だれにでも与えられるものであった。
 しずくは帰るところであったが、可須水の顔を見ると、もう少し付き合うと言い、また、念仏堂に戻った。しずくは弘徽殿の女御に仕えている女房であった。琵琶の名手である。
「どう、宮中は? しずくが弘徽殿にお仕えしてから、もう三、四年ぐらいたつかしらね」
「早いものね。つい、この間お仕えしたばかりのような気がするわ。でも、なにがなんだかわからないうちに、いつの間にか、年数ばかりたってしまったという気がするわ」
「主上が、宣耀殿の女御様に、すっかり心を奪われなさったのですって?」
「そうなのよ。この間は、四日も連続でお召しだったのよ!」
「えー、四日も!」
「だけど、その四日目についに、皇后様が大爆発」
「どういうこと?」
「それがね」
 尼が近づき、菓子とお守りをそっと置いた。
「今日は、よくお越しいただきまして、ありがとうございます」
 ありがたい仏様を前にして、話に夢中になっていた二人は、我に返り、尼にわびと感謝を伝え、読経を真剣に始めた。
 読経を終えると、二人は休憩室に行って、しばらくおしゃべりをした。
 壁の穴から皇后が食器を投げた話に、可須水は大笑いした。父がおかしくなりさえしなければ、自分だって女御になれたかもしれないと、未だに不運を恨んでいる可須水には、良家の令嬢が猿かなにかのように、興奮して暴れ出すのを聞くと、痛快で仕方ない。これは、可須水でなくても、女房階級の女性だったら、みんな同じ気持ちであろう。とても優しい女性だと噂に聞く宣耀殿の女御のことは、少し気の毒に思うが、女御階級一般に対する、得体の知れない嫉妬心は、よくできた可須水であっても、どうすることもできないのである。
「でも、私、宣耀殿の女御様にほめられたのよ」
「え? お話をしたの?」
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【--- 作品情報 ---】
◆ 題名 按察
◆ 執筆年 2023年8月5日